16.破壊された塔 THE BLASTED TOWER
南の果て、彼がそうと知らずに暮らすその南の果て、少年は育ち盛りのわずか手前といった細い腕を広げ、腰が隠れるほどの麦穂はなすがままに身を傾ける。風は遠方からの報せを少年にもたらすが、彼に風の言葉が分からないのは、丘の麓に見える隣町と一帯を囲う山々の先に自分と家族以外の人間が生活していることが想像することができないのと同様に、彼にとって 「向こう側」 のものだからである。少年にとっての世界とはこのようなものだった。まず、母がいた。自分よりも幼い弟がいた。祖父母がいた。父はいたかもしれないがいなかったかもしれなかった。自室の窓はいつも同じ景色を映していた。緑の丘と、畑、広がる穂が規則的に区切られているさまは、天地を覆う新緑の絨毯に茶や金の模様を施しているように思えた。ここがすべてで、あたたかな陽の中に包まれてこの身は朽ちていくのだ。深い靄の道をひた走ろうとも、どこも真暗い宙が広がるばかりで、少年は何を望もうとも欲するものを手にすることはない。しかし、もしも高き天におわすかもしれない大いなる存在が少年を眼に留めたならば、彼は声を聞き自ら進むだろう。大人たちがまだ寝静まっているうちに、少年は目覚めてひとりでに家を抜け出し、旅人が疲れを癒すためにつかの間の休息を求めるように覚束ない足取りで青黒い草原を彷徨う。そして世界の果てには――太陽があった! 少年はもはやかつての少年ではなかった。華奢な背中に背丈を優に超える翼をはばたかせ、携えた剣を振るい甘美な香りを漂わせる花々を一太刀で切り裂いた。少年は世界の果てを見たが、そのまた果て、天上の彼方さえ越えた本当の果てに辿り着くだろう。
南の果て、彼がそうと知らずに暮らすその南の果て、少年は育ち盛りのわずか手前といった細い腕を広げ、腰が隠れるほどの麦穂はなすがままに身を傾ける。風は遠方からの報せを少年にもたらすが、彼に風の言葉が分からないのは、丘の麓に見える隣町と一帯を囲う山々の先に自分と家族以外の人間が生活していることが想像することができないのと同様に、彼にとって 「向こう側」 のものだからである。少年にとっての世界とはこのようなものだった。まず、母がいた。自分よりも幼い弟がいた。祖父母がいた。父はいたかもしれないがいなかったかもしれなかった。自室の窓はいつも同じ景色を映していた。緑の丘と、畑、広がる穂が規則的に区切られているさまは、天地を覆う新緑の絨毯に茶や金の模様を施しているように思えた。ここがすべてで、あたたかな陽の中に包まれてこの身は朽ちていくのだ。深い靄の道をひた走ろうとも、どこも真暗い宙が広がるばかりで、少年は何を望もうとも欲するものを手にすることはない。しかし、もしも高き天におわすかもしれない大いなる存在が少年を眼に留めたならば、彼は声を聞き自ら進むだろう。大人たちがまだ寝静まっているうちに、少年は目覚めてひとりでに家を抜け出し、旅人が疲れを癒すためにつかの間の休息を求めるように覚束ない足取りで青黒い草原を彷徨う。そして世界の果てには――太陽があった! 少年はもはやかつての少年ではなかった。華奢な背中に背丈を優に超える翼をはばたかせ、携えた剣を振るい甘美な香りを漂わせる花々を一太刀で切り裂いた。少年は世界の果てを見たが、そのまた果て、天上の彼方さえ越えた本当の果てに辿り着くだろう。
19.太陽 THE SUN
世界がまだ無垢だったころ、夜の空は等しく暗かった。幼子の一歩一歩は祝福され、誰もがあるがままでいられる幸福への道すがら、ぼくはひとりでに輝く星を見た。もしもぼくの声が届くのならば聞いてほしい、 〈絶対者〉 よ、すべてを見通すあなたの眼は宇宙のどんな事象も取りこぼすことがないというのに、そのあまりにも強大なまなざしをたった一人の少年に注ぎ続けるというのか! 彼の心は砕かれ、生きながら死にかけており、あなたの見せたいもの以外の何ものも彼の目に留まることはない。しかし、少年は消えかけの意志を奮い立たせる。自分はいつか、どこか遠い世界に行けるだろうと信じている。ぼくは少年の手を取り、 〈絶対者〉 のもとで踊り明かそう。あなたが顔を顰めようと構うものか。決してこの手を離すものか! ぼくたちは薔薇を枯らさぬよう、踊る、踊る、ふたりで、ひとりで。炎は未だ絶えることはないのだから。
15.悪魔 THE DEVIL
わたしがなぜ 〈君臨する者〉 になったのかということについて、わたしが誰にも語ることのなかった君とのつかの間のひとときを思い出さずにはいられない。わたしがまだほんの少年で、世界の果てのそのまた果て、本当の果てを目指して旅を始めたころ、君はいつでもわたしの傍にいてくれた。どこから来たのか、どこで生まれたのか、誰と住んでいたのか、何も知らない君がただ一つ分かっていたのは、君が 〈旅する民〉 であるということだけだった。わたしたちは幾夜も語り合ったものだ、互いの夢の話を。星空の下でわたしたちが焼べた火は、天上の星々に居場所を知らせる旗印だった。君はわたしの言うことを信じてくれた。今まで誰も見向きもしなかった、わたしの真実を。わたしは故郷で 〈太陽〉 を見てから、世界の果てのそのまた果て、天上の彼方さえ越えた本当の果てを目指していることを。そのために幼いわたしはあらゆるものをこの目で見ようとしていたことを。そして君は満足そうに微笑んでこう言った。 「ぼくの安らぎは、きみの意志のなかにある」 。今だけは君の名前を呼ぶことを許しておくれ、 〈ソフィア〉 、幼きわたしの見えざる友よ。木陰に君の骨が横たわっているのを見つけ、異形は目覚めた。威風は真実を照らすだろう。破壊し、新たに形づくることで、わたしの夢に辿り着けるのならば、このあまりに永い旅路は何も苦ではないよ。
18.月 THE MOON
たとえ目を閉じたとしても、昼間に無理矢理幕を覆って見えなくしているだけで、本当のところは目を閉じようと閉じてなかろうと何も変わらない、常に自分自身を見つめざるを得ないということにおまえはとうに気が付いている。目を閉じても見えないことにはならない。瞼を閉じて同じものを色彩のある景色から光と闇の景色に変えただけでしかない。故におれはひとつの考えに望みを託した。すなわちおまえがおまえである限り、おれはおまえになれるのではないかと。おまえだけの場所、おまえが憩うただひとりのためだけの静寂。おまえが昼間を最も照らすものであれば、おれは夜に広がる星々の王となろう。おまえの光が地上のどこにでも届くようにあまねく喜びを齎そう。見よ、地上は今も多くの悲しみや惑い、欺瞞、憎しみで溢れようとしている。しかし、おまえは全てを知ったうえで人を愛したのだろう? おまえは自由だった。いくつもの村や街を訪れ、異なる人々と出会った。時に助けられ、時に欺かれ、罵られた。それでもおまえの光が失われなかったのは、人の心は未だ旅の霧を彷徨っていることを知っていたからだ。おまえの思うままに駆け抜ければいい、おまえは完璧なのだから。我らがかつて見上げることしかできなかったあの場所に遂に到達したことを遍く知らしめるがいい、ひとりきりの凱旋に祝福を! 何も心配することはない、おまえの眩い朝を仰ぎながら、おれはおれ自身の役目のため真っ逆さまに落ちていこう。
7.戦車 THE CHARIOT
晴れ渡る初夏の太陽も、夜の生暖かい微風も、明日一日を過ごすつかの間の休息であるならば、ただ二人の少年たちを除いては、それだけに値するのだろう。背中のあたり、翼が生えていたはずの場所を撫でてみても、傷口は綺麗さっぱり消え去ってしまった。少年たちは真夜中へ手を伸ばす。いつまでも、いつまでも、忘れ去られた約束が果たされる日を希望しながら。しかし彼らを憐れむことはない。二人の願いは小さな火の欠片となり宵闇に浮かんでいたのを、星々は見落としたりはしない。星の光が二人のもとへ降りるとき、火の欠片はたちまち燃え盛るだろう。それは証だ。少年たちの世界への渇望だ。与えられようとも決して満たされない、自分がここに 〈ある〉 ことの証だ! 不動の番人は少年たちの生きる世界と、二人の彼方とをつなぐ目印となり見守っている。そしていつか彼らは結末を思い出すのだ、 「あの調停者を道しるべに、我らはいつか飛び立つ日が来る」 と。
14.節制 TEMPERANCE
さて、ぼくが南ですべてを垣間見たあの日からこれまで重ねてきた遍歴の旅で、一体全体何を慰めとしてきたかについてお伝えするべく、ここにできる限り記しておこうと思う。まず、ぼくはほんの子供だった。あるものはそのままあるものとして受け入れられた。自分の周囲数百メートルがぼくの世界だった。その範囲内であればぼくはいつでも安全だった。しかし、既に何度かお話しした、あの 〈太陽〉 によって、ぼくの生ぬるい風の吹く閉じられた世界は不毛の地と化してしまったのだ! 空は一面の青で潤っているというのに、踏みしめる土は乾いていて、ひび割れていた。雲は流れておらず、ぼくは大地に座礁した。どこを見渡しても真っ暗だったが、ただ一つ 〈太陽〉 だけは煌々と輝いていたので、 〈太陽〉 を目印とした。でも、世界はきみのものだった。きみは高いところから辺りを見渡していた。そして何もかもを思うままに、原初の火に焼べたのだ! 君が綯い交ぜにする宇宙にぼくがいるのかどうかは気にすることではない。苦しみも悲しみも全て窯に投げ入れてしまえば、喜びは満ち溢れるだろうか? もしそうであるのなら、ぼくは今度こそ気儘なきみの手を取って、口づけを贈るとぼく自身に誓ったのだ。
20.最後の審判 THE LAST JUDGMENT
生きとし生けるものはかれ自身の命令に従い休息を取るため巣なり家なりに戻って身を横たえる 〈夜〉 と呼ばれる時の中で、こうしてきみと二人で火を囲んでいるのは、まるで昼間に逢うだけでは足りないので自分たちだけのささやかな 〈昼〉 を作り出そうとする、いわば抵抗のようなものに思えてくる。日が昇っていて明るいうちは分からないものだ、日々の仕事に追われ片付けることで精一杯なのだから。しかし今は、きみにもおれにも本来の願いを遮られてしまうようなものはないから、この場でゆっくり考えてみても良いだろう、せめて、時の進まない今だけは。おれたちは随分長い間を共に過ごしたから、つい話しそびれてしまったが――単刀直入に聞こう、おれたちは共通の目的を持っているね? 自分が何のために、また何を思って駆け抜けてきたのか、それはただおれたちの自由のためだけなのではないだろうか? きみはやりたい放題やっているようで、実のところ、きみは心の根底に、幾重もの盤石な地層を持っている。生は死の猶予、たった一世紀に満たない 〈自由時間〉 だ。きみの星のために生きるがいい、きみの真実へひた走るがいい! きみの 〈善き心〉 に従って、きみはおれをここまで導いてくれたのだと信じたい。でも、きみは 〈はじまりの一人〉 であるおれの道を照らす光であるというのに、その身を薪とするのだな。おれはきみに何ができるだろうか? きみが灯してくれた火を、何ものよりも真赤に、見るものすべてがその美しさのために息を呑むようにしよう。きみに一番に見てもらえないだろうか? ほら――夜明けだ。
6.恋人 THE LOVERS
「聞いてくれ、ぼくの心にずっと澱んでいるこの苦しみを。ぼくは時々思わずにはいられないんだ、走っても走っても、ぼくの脚では無理があるのではないかと。おとなはみんなぼくより頑丈で強いから、ぼくより遠くに行けるし、疲れることはないというのに。おとなはぼくより大きいから、ずっと遠くを見ることができるといのに、ぼくときたら、あの丘の向こうに何があるのかすらさっぱり分からないんだ」
「おれたちはどうして、永遠に等しい時間をを一つの星の中で過ごしていかなければならないんだろうな! みんな高いところに行きたがるものだ、高いものを造って、空を飛んだような気になっていたいんだ。それは呪いだ。おれたちは魂に楔を打ち付けられたんだ。本当は世界のどこよりも高い場所がいつでもそばにあるというのに、誰も気付きやしないんだ! 見上げるものはみな地続きにしか存在できなくて、否応なしにおれたちのからだを傷つける……」
「ときどき想像するんだ、ぼくは少し高い丘の上に立っていて、辺りを見渡せる場所にいる。そこで風の音に耳を澄ませると、どこからか声のない声が聞こえてくるので、それが聞こえた方に目を凝らしてみる。すると遠くの山はたちまち崩れ落ち、森は燃えて草原に飛び火し燃え広がる。みんなぼくの思う通りだ。でも、次の瞬間にはいつもの平和な緑が広がっている……」
「おれたちの腕はあまりにもか細いから、去りゆく者の手を引き戻すこともままならない。どれだけ地面を強く蹴っても、せいぜい土埃が舞う程度だ。おれたちは何も為せないのかもしれない、でも、せめて誰かにとって忘れられないものでありたい。おれはおまえの心でありたい。どうかおれを見てくれ、お前のからだにがんじがらめに巻き付いた鎖を砕かせてくれ!」
「きみだけがぼくの中にいるのなら、一体ぼくはどこへ行けばいいのだろう! どうかそんなことを言わないでくれ。ぼくもきみであることを許してくれ。さあ、こんな鎖はさっさと砕いて、ぼくたちは二人のためだけに祈ろう」
「おれはおまえになり、おまえはおれになる、その言葉をどれだけ待ちわびていたことか! おれたちは互いの星となろう。おれはおまえを見上げ、おまえはおれに憧れるだろう。そして、いつの日か誰も届くことのなかった場所に行こう。何度でも誓おう、おれはいつでもおまえの前に立ち、おまえがいつもおれに心を向けてくれるように、死に瀕した天使の断末魔の如く叫び続けていよう」
8.剛勇 FORTITUDE
涼しげな秋の風は肌を刺し、新しい命の芽吹く音がする。世界は明るかった、夜を超えた朝の光を、すべての人々があまねく享受するべきであるものだと信じて疑わなかった。 「そうではない、まだそのときではない」 。いずれは正しくなれる、そう信じることで過去を忘れ、痛みを忘れ、前へ歩を進めさせようとする烏滸がましさ。今でも明瞭に思い出す、ゴム素材のゆりかごに微睡み、絶え間のないせせらぎを聞き未知に夢見ていたことを。果たしていつからだっただろうか、わたしの 〈太陽〉 が何者かによって陰らされていたのは。しかし、とめどなく溢れ出る渇望はわたしの心臓を満たし、わたしの血は沸騰し、収斂し、爆発する。どうしようもなく腹は減り、喉は乾く。走りたい、今すぐに駆け出したい、今見えるものとこれから見るであろうものを何一つ忘れることのないよう目に焼き付けたい。手を伸ばしていたい、掴んでくれないのなら、わたしがその手を離さない。ほんの気紛れだったとしても、一時だけ寄せられたきみの身体にしたたかな体幹を感じたのは、わたしがきみに魂を見出したからに他ならない。わたしは遠き夕暮れの後の深い青だ。わたしはその身を以て世界に朝を齎そう。わたしは自分にひとつの責務を課した。自分が 〈果て〉 に辿り着くそのときまで手を掲げ続ける、という責務だ。何も見失わぬように、天に手を伸ばさずにはいられないようにして、彼方への淡い希望をわたしだけの星と呼んでこの盲目に植え付けたのだ。人はわたしを蛮勇と笑うだろうか? 愚かだと嘲るか?「そういうものだ」 と賢者ぶって諭すか?〈運命の相手〉 がいてたまるものか! 泡沫の夢において暇潰しをしているにすぎないというのに、ほんの気慰みに世界を創造できると思い込むその傲慢さたるや! わたしだけは忘れない、苦しみの内にのたうちまわり、わたしだけの痛みに昼夜呻いていよう。わたしはわたしの焦がれたものひとつのために殉じよう。ああ、しかし――未だ空はこんなにも遠い。
3.女帝 THE EMPRESS
息を吸う。吐く。吸う。吐く。二人乗りの細胞は血液の流れに任せて流れる。無音の箱舟。心臓の規則的な鼓動とモーターの駆動に大した差はない。自動開閉の棺桶、弔う者のない水葬。おれたちは鉄の脊髄を昇る。そのまま最上階へ。かつて見上げることしかできなかった場所へ。巨大な身体は進歩に浸食された。血管は電子回路に置き換えられ、末梢神経は電線に成り代わった。呻き、苦しみ、逞しい脚で飛び立とうとしたが、見知らぬ人々による際限のない欲望がかれを地に繋ぎとめてしまった。そしてかれは最期の力を振り絞り、せめてものあがきに、自分が抗い続けていることを知らしめるため、恐ろしく巨大な翼を広げ、骨になった。
そこは未完成、あるいは未修復の秘密基地。かれの頭、身体の最も高い場所、おれたちはさしずめ目だろうか。かつてここに降り立った 〈救世主〉 は、彼が現れた真夜中の暗闇よりも暗かった。おれたちはこの神秘の領域に活路を見出す。声に出す必要はない、そもそもおれたちの声は届かない。星に語りかける無言の祈りが言葉であり、聞き届けられたとき、夜空に十の星が瞬く。おれたちは星空と自分たちの間に見えない道があるのを感じる。見えないが、見えている。 〈ある〉 ことが確かだということが分かる。その隔たりは 〈果て〉 へと続く道の 〈扉〉 である。 〈扉〉 はひときわ大きな祭壇の上に立っている。砂埃舞う原初の地に、今まで二人が空に向かって照らし続けたあの焚火がこの場に呼び寄せられ、おれたちが到着するのを待っている。願いは初めからこんなにも近くにあっただなんて!〈案内人〉 は、おれたちに 「自らの思うままに歩め」 と言う。自らの声に耳を傾けること、人間身体の一切から切り離された 〈全〉 の声を聴けと言う。おれたちはその通りにした。自分の声に従って、己の心の赴くままに生きた。おまえは 〈この世界よりも高い場所〉 を目指した。おれは 〈彗星のごとく駆ける者〉 の火を絶やさぬようにした。 〈案内人〉 は 「愛せよ」 と言う。その無垢な瞳が、自分自身は力を得るものではなく、力そのものなのだということに気づかせてくれるはずだ。
ここでもう一度、誓いの儀式を始めよう。 〈案内人〉 はすべてのおれたちを待っている。過去も、今このときも、この先も。今までのおれたちも、同じようにしただろう。だから、何も思い出せない。同じ世界を巡ることはない。いつか目を開けた誰かは、この旅の全てを乗り越えた全く新しい世界に立つ。 〈ノウン〉 は、自分がおれたちであったことの一切を忘れるだろう。しかし、おれたちの旅路そのものや、道の途中に置いた灯火が彼を導くだろう。彼には見るもの全てが美しく映る。おれたちと同じように、彼も彼自身の〈星〉を目指し、またこの場所に辿り着くのだ。
17.星 THE STAR
常に駆け抜けずにはいられなかった。彼はきっと、誰よりも自由だった。奔放、無邪気に駆け回り、縛めを一時の間のみ緩めることを許された幼子のよう。羨望の的になるのも無理はないだろう、本当の子供のようだったから。影が彼を形作った。無目的で、無軌道で、非回顧の偶像……皆がそれを良しとした。先頭を行く者はいつでも自由でなければならなかった。彼は選ばれたのだ。失われた自由の亡霊を宿し、観衆は夢に焦がれる。選ばなかった世界への、少しばかりの後悔を胸に抱きながら、運命に従って平然に生き、来るべき明日のために永遠の今日を過ごす。そしてふと思い出したようにこうつぶやくのだ――「私もこんなときがあったものだ!」
彼は走り続ける。夜の暗闇を突き進む。定められた通りに、定まらずに。無垢な少年は今もなお未来のその先へ向かう。 「そのままでいい」 と言う。脇目も振らずに走り続ける。過ぎ去ったものを懐かしみはしても、振り返って拾い直すことはできない。いつしか全てが過去になり、こう問いかけるのだ。 「最初の一人は何を心の拠り所とすれば良いのだろう?」
遊ぶように大地を飛び、駆けていながら、枷を恐れて逃げ惑っているようだ。自身を突き動かすただ一つの願い、すなわち、彼の夢が見えるところを求めるということ。彼を妨げるものから、ほとんど闇雲に、必死に走って逃げて、少しでも希望の光の差す場所をひたすら行く。辿り着いた先の空は雲一つなく、地平線は白みがかっているが真っ暗で、清浄で、静寂のうちに在ることを知る。そこからすべてを見つめる彼の眼はひとりでに輝くのだ。
5.教皇 THE HIEROPHANT
〈今〉 を生きることができるのは 〈今〉 に物語を持っているからであるとするのならば、すべての 〈今〉 に見放された者はただ消滅を待つだけなのだろうか? 幼子は常に 〈今〉 あるべき存在であるが故に 〈未来〉 を見ることができない。彼らにとっては全てが新しいので、彼ら自身が 〈未来〉 なのだ。しかし、やがて彼は気づく――自分は 〈今〉 かつ 〈未来〉 から見放されたのだと。蛾のように夜の中を光を求めて当所もなく彷徨い、光が消えると、自分の中にあった微かな光の記憶を頼りに夜の海を泳ぎ続ける。しかし羽を休める時は来ない。彼は 〈過去〉 に舵を切った。 〈物語〉 は彼が毎夜やって来るのを静かに待っている。無に囲まれた世界の中、たったひとつの輝く灯である。消えかけの蝋燭は彼の境界を揺るがす。 〈物語〉 だけはただそこに存在し、それ自体に意志はない。どれもが語られたものであり、あるのは人の思惑と無意識の願いだ。故にその 〈物語〉 は語りかける。人が聞き、話す言葉など不要、 〈物語〉 は人間の言葉を通して現れるが、人と同じではないのだ。では、どうすれば良いのか? ただ、願うこと、切望することだ。身体を、心を、苦しみを、痛みを、すべて地上のうちに置いたのならば、 〈物語〉 を覆っていた言語の霧が晴れて、憧れに辿り着くことができるだろう。来るべき時が来るまで、彼は叫ぶ。 「我が星はいずこにありや?」
10.運命の輪 THE WHEEL OF FORTUNE
一つ、二つ、三つ、四、五、六と、確かめるように指でなぞる。ぼんやりと前を見るとロッカーが並んでいる。等間隔に区切られたステンレスの細胞は、満たされては空き、また満たされる。大きく息を吸い、吐く。空気が体中を巡り、体の表面を覆っていた苔むした鎧が剥がれ落ちて、わたしはわたしの底から燃え盛るものがやってくるのを静かに待つ。それは運命と呼ばれるらしい。ただ待つことしかできない不可抗力が示す道の通りに、わたしは歩まなければならないらしい。わたしは祈る。目を伏せ、言葉にならない音声だけの短い願いを頭の中で囁く。ゆっくりと目を開くと、わたしは大切な宝物を片手にきつく握りしめている。わたしは諦めたような目つきで、これから進むべき道の方に顔を向ける。わたしたちはこれから三三五七回目の対決を迎えようとしている。わたしは、これまでの三三五六回も、六つの宝物を一つずつ指でなぞり、目の前のロッカーをぼんやりと見つめて、大きく深呼吸し、祈りを捧げ、目を開き、向かう先の方へ顔を向けた。それは寸分の狂いもなく行われた。一つ一つの動作は、一秒も早すぎることなく、また一秒も遅れることがなかった。祈りの言葉は正確な抑揚と間をもって捧げられた。わたしはおもむろに立ち上がり、光の差す通路を一歩一歩進む。俄かに視界が開け、芝のグラウンドが辺り一面に広がる。わたしはこの光景を三三五六回見た。君はこれまでの三三五六回と同じように不敵に笑っている。空を割らんとするばかりの歓声を上げる一万の観衆も、まるで初めて見た光景であるかのようにわたしたちに対して感嘆の声を上げ熱狂を享受するが、事実彼らは世界が始まった瞬間から感嘆する定めであったことは、彼らのうちの誰も知り得ぬことである。わたしたちが一体いつからここにいるのか、君はどう考える? 君はまるで全てを知っているかのように笑う。それは諦めか? 自分がこうすることを定められていると知ってしまったから笑っているのか? でも――わたしにはそう見えない。もし本当に君が諦めているのなら、君はわたしを見ていないはずだから。今日までの三三五七回、このグラウンドで向かい合ったとき、君はいつも射貫くように――あるいは何か訴えかけるように――わたしを真正面から見つめた。わたしたちはこれからもここに立ち続けるだろう。誰もがわたしたちのことを忘れてしまっても、わたしたちは続くだろう。先攻、後攻、何度でも、はじまり、おわり、魂は聖域を巡る。わたしは微かな望みを抱かずにはいられない。四〇二五回目の対決で、わたしたちの元に空から何かがやって来るだろうということを。
9.隠者 THE HERMIT
ずっと、待っていた。その時が来るまで、何年も待ち続けた。子供にとって、数年の時間は一生分に等しいほど長かった。少しでも気を緩めたのなら、せっかく待ち望んだ 〈時〉 を逃してしまうと思うと、これまでの努力が水の泡になりそうだった。だから今日一日を終えるのに二四時間もの時間を過ごさなければならないことが少年にとって堪らなく苦痛に感じられ、あまりに気を張りすぎて夜も満足に眠れなかったこともあった。そのようなときは、気力と体力が尽きた瞬間こそが、彼の休むべき頃合いであった。朝目覚めると、彼は 〈時〉 を逃してはいまいかと不安に苛まれながら、表向きは何事もなかったかのように大人たちに朝の挨拶を交わすのだった。現実、少年は自分を愛してくれる家族と多くの友人に恵まれた。少年の喜びは皆にとっての喜びで、悩みや悲しみもまた皆のものだった。しかし、少年の待つ 〈時〉 だけは彼自身のものだった。それは子供の幻想だと思えばかわいらしいものだったかもしれない。厳しい大人であれば、彼を冷ややかな目で見たかもしれない。少年自身はというと、幻想であることを拒んだのだ。賢い彼は、 「これはいつか消えてしまうものだ」 と自ずから気が付いた。一体自分の中の、どれだけの思い出が、消えることを望んでいたというのか? 答えは否。ただ生きただけで、一日を始め、終わらせただけで――それだけなのに、本当に無くなってほしくないものに限って、いとも容易く消え失せてしまうだなんて! 少年は一つ願ったにすぎない。自分がこれから失ってしまうかもしれないものが、どんなに小さなものであろうとも、決して取り零すことがないようにと。だから彼は待ったのだ。どこかの誰かに向かって助けを求める小さな産声を。確かに聞こえたのだ! 遠い場所から少年を呼ぶきみの声が! 少年はもう迷うことはない。今に彼は立ち上がり、きみの元へ向かい、辿り着いたら手を差し伸べるだろう。もし星の輝く夜にきみへ手を伸ばす男がいたら、躊躇わずにその手を取るがいい。きみは、本当に泣くべき時を知るだろう。きみの中で燻る炎は、ある真夜中に最も輝いて、わたしたちを導くだろう。
21.宇宙 UNIVERSE
駆ける。どこまでも駆ける。体力の続く限り走る。一歩一歩踏み出す限り。足は軽やかに土を蹴り草を撫でる。巣から伸びる蟻の行進、獲物を追い立てる狼の群れ、踏み均された天然の歩道、魚は流れに任せて川を下る。遥か北の方に、道は続く、誰も迷わないように道のりはレンガとアスファルトで舗装され、街と町の間を地図でなぞれば全てが直線で結ばれる。始まりはただそうであった場所、この先の長い生に於いて、その場所はわたしを呪いのように縛り付ける。故に私は置いてきたのだ、あったかもしれない退屈な未来を! どこも地は緑に覆われ、ここは虹色の楽園である、しかしわたしは人間だ。何て美しいのだろう、かつて思い描いた理想の王国が眼前に広がっている! 彼は何もかもを見下ろしている。人間、空、平原、山々、足音、罵声、血、骨、幸福、奇跡、地球儀。王は国中へ余す処なく称えるべき名を知らしめる。閉じられた墓場に栄え、かつて偽物の王は我が物顔で一番星に名乗りを上げた。しかし、未だ混沌として冷めやらぬ、わたしたちが心と呼ぶものが内に渦巻く限り、わたしは空を見上げるだろう。世界は美しいが、彼方の星ほど美しいものはない。何もかも忘れて、再び戻るのだ、わたしに灯った最初の炬火にあこがれて。
2.女教皇 THE HIGH PRIESTESS
活発な空の瞳が微睡み、瞼が閉じて最後の光彩が夢へ向かおうとしているところ、昼間の賑わいもまた店じまいの時間なのだ、 〈本当の自分〉 に戻るべく外付き合いの友人をさっさと頭から追い払い、自分と愛する者しか知ることのない聖域へと歩を早める様は、そこがまるで自分にとってはそこしかないのだとでも言うように、蜘蛛が部屋の隅に張った貧弱な巣だ。一日、また一日と、穏やかに過ぎる日々をよそに、わたしの心は逸り、一時の停止も休息も許さなかった。見えるものがあったからそこに行く、たったそれだけのことがどれほど難しいのか、遠くの山々は聳然として虫一匹ごとき気に留める存在ではないし、存在ですらない。 「星を見たのなら祈りなさい。あなたの願いを託しなさい。必ずや星はあなたの声を聞き届けてくれるから」。 母の言葉が蘇る。及ばぬ世界を思って部屋の窓から一番星を眺めていたとき、自分が跪いた場所は狭すぎたのではないか? 窓を開けて、光の方へ祈る、一心不乱に。かつて誰かがそうであったように、真っ暗で、冷たく堅い石の壁に囲まれて。光はわたしを惑わせる、手を伸ばしても煙は宙に溶けてゆく、置いてけぼりの燃えかすだ。しかし、遠くの方で雷が鳴っているのが見える。ならば今一度、分厚い雲も青空も超えてみせよう! 再び巡り合う日を切望して! わたしは秘密の場所で最後の星を見送り、太陽は頭を擡げる。朝の光はわたしをどこにも連れていきはしない、ただ、真正面から向かうだけだ。
13.死神 DEATH
道があろうとなかろうと 思うままに行けば
そこはいつでも理想の国
月明りだけが頼りの夜の国
何でもできる、なぜならわたしがいるのだから
わたしがここにいる限り裏切られることはあり得ないのだから
今日は明日のために眠ろう
しかしどうしてこんなにも空しいのだ
未だ迷いの中に微睡んでいるのか?
心地良い秋の涼しい風はきみを閉じ込める
いつの間にか太陽すらも居眠りして
わたしを目に留めることなんてありはしない
わたしは決まってこう言うのだ、
「ああ、今日もやってしまった!」
このままではきみは来ないことは分かっているのに
わたしの頭にはいつも靄がかかっている
これから始まるのだから
今はもう少しこのままで
そこは 〈終わり〉 ではない
わたしは再び 〈海〉 を携えてやってくる
きみは手に入れた全てのものを失う
それはわたしとて同じことだ
〈海〉 はやがて陸を吞み込んで
誰も在りし日の栄華を思い出さなくなる
しかし、何もなくなったとしても
わたしは 「かつてあった」 と言うしかないのだ
かつてあったものを思い出せる限り
わたしは帆を進めて行けるのだ
幾百もの亡霊たちがわたしを見つめている
わたしも彼らと同じなのだ
あるかも分からない光に向かって
祈りを捧げる盲目な囚人だ
1.魔術師 THE MAGICIAN
わたしたちの運命は気紛れだ
気紛れに未来は暗くなり、また明るく輝く
それは嵐の予兆だ
引き寄せ、また離れ離れにされる
わたしはきみに 〈謎〉 を仕掛けよう
きみにしか解くことのできない 〈謎〉 を
それはあまりにも遠い出来事であるから
きみは忘れてしまったかもしれない
しかし、わたしは忘れない かつて自惚れのために
求めてやまなかったものを失ったことを
きみは既にわたしの過ちを許していて
振り返ることはないのかもしれない
重苦しい空気はわたしの足を鈍らせる
わたしはどうすればよかったのか?
倒錯するハリエニシダのように
わたしは遠き日の思い出を胸に秘めたままでいる
わたしたちは声高に宣誓する
「我らは今ここに!」
止まった時計は再び動き出し永遠を刻む
規則正しく円を描く星は見えない絃に引かれて
灯台は必ずや我らを照らすだろう
耳を澄ましてよく聞いてみるといい
我らの産声を!
それはかつての死
わたしたちの最期の 〈言葉〉 だ
おめでとう、我らはまだ、歩んで行ける!
わたしたちの願いはとうの昔に叶っていたのだ
どうか、果てなき空を、海を
泳ぐように生き、死ぬのだろう、何度も、何度も
忘れては思い出し また忘れるのだ
たとえわたしが全て憶えていたとしても
わたしたちはひとつの 〈言葉〉 に呼ばれたとき
相見えるのだ、それまでは ただ憧れていよう
在れ果てたこの地に 再び花開くのを
4.皇帝 THE EMPEROR
何度も重なる 稲妻のような光景
〈彼〉 と同じ姿の少年はかつての亡霊
忘れていたはずの 最初の思い出
あれは自分だったのか
それともよく似た誰かなのか?
何も語らなかった 繰り返す夢
無力のために終わらせることのできなかった
日記の続き
星辰のパノラマは常に 〈彼〉 に開かれており
望遠鏡は必要ない
〈彼〉 はただ夜明けの光のみに導かれた
〈彼〉 はいつも憶い出そうとしていた
ほんの一瞬目にしただけの暁光を忘れまいとして!
燃えるような道はどこまでも開かれ
命すら超える 向こう側
確かな足取りで玉座に向かう
失った世界は再び 〈彼〉 の手に
初めから取り戻す
次の 〈ノウン〉 への一瞬
戦士たちは皆 〈彼〉 を慕う
復活の合図はここに
「王よ!」 もう二度と覆されることのない喜びよ!
未来を考えてみたまえ、人よ、
未来に生きる愛すべき人よ!
それは希望だ 病み疲れてしまった者への
たった一つの治療法だ
だから我らは星に焦がれるのだ
美しいものを追い求め続けるのだ!
いつか笑っていたあの子供は
本当はずっと泣いてばかりだった
遠く、深く、暗いどこかで蹲っていたあの子供は
今は安心して眠っているだろう
だから 〈彼〉 は行くのだ
すべての思い出を背にして世を統べるのだ
〈彼〉 を動かすのはひとつの贈り物
そしてただひとりの人間の ちっぽけな願い事
何も映さなくなった眼は
土に埋もれた剣を見た
奪われた王国
今や無名の戦士となったかつての王
五十年の栄光と 千年前の手紙
鎖はまだこの首を絞め殺してはくれない
せめて消えないものを残してみせよう
続く道は明るい
漸く果たされる約束
他の誰が忘れても
わたしはあなたを憶えている
0.愚者 THE FOOLISH MAN
百万の言葉は一語より出で
一語は火より目覚める
影は片時も離れることはないが
朝の訪れるたびに霧散する
この光景はすでに見届けたはずだ
天に向かい手を伸ばす
鋭く切り裂く鳴き声が聞こえる
腐敗し、還り、芽吹く
わたしが何者なのか分からないのがひどく恐ろしい
すべて、あるいはすべてのはじまりであるが故に
天に向かい手を伸ばすのは
わたしであり、わたしではない
どこにも届かず、夢見たまま果てた
ひび割れた砂時計
追い詰められた者と 追い詰め、のし上がった無法者
語り継がれてきた物語と 原初の伝説
記録されることによって物語は残る
名も無き人々によって 偶然に、細々と
分岐し、ときに途絶え、生き残る
人々は待ち望んでいる
呼ぶべき名に相応しい者を
かつてわたしは、
〈誰か〉 と笑い合ってはいなかっただろうか?
わたしはすべて、あるいはすべてのはじまり
〈誰か〉 の記憶であるのならば
きみはここにいたはずだ
わたしたちは、出会っていたはずなのだ!
太陽は昇り わたしは秘密の歌を口ずさむ
「ララララ ラララ ララ ララ……」
それは言葉が言葉である前の衝動だ
歌が 〈誰か〉 とわたしを引き合わせる
聴くものはどこにもいないが
きみはどこかにいるのだろう?
歌は終わり、また初めから歌う
世界は始まり、終わり、再び始まる
どこへでも行こう 名も知らぬきみに会うために
もし叶うのならば
もう一度 わたしの名を呼んでくれないか
〈終〉
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