2024年9月23日月曜日

『言解きの魔法使い』5巻 感想

見えたもの、見せられたもの、見たかったもの。はたと気が付けば、すでに時の置き去り。世界を素朴に愛する、おそらくどこにでもいた一人の人間。どうしようもない現実、理不尽に奪われた、当たり前の穏やかなまやかし。「この世には、暴力で現実をどうしようもなく壊していく輩がいる」「俺はそれに抗う術を持たねばならん」。今度こそ自分の世界を守り通すために戦い続ける。その在り方は、同じく奪われた者にひとつの道を示したか。

本を開く。世界の隅に取り残された物語が、来たるべき読み手を待っている。彼方から聞こえる鯨の声は、何もかも奪われた者を歌う。見放され、生き永らえた、言葉以前の思念と言うべきものはなすすべもなく蠢いて、もう誰かを呼ぶことはない。なぜこんなことになってしまったのか、なぜ自分なのか、なぜ呪いしか与えられなかった者たちを思い出すことすら許されないのか?

名とは世界、呪いとしての言葉。人を殺し、ときには自らを殺すもの。輝く世の地平に乱立する鉄の墓標、裏路地の花。秘密は他者にとっては理解不能、摩訶不思議な謎で、拒絶と好奇心を引き起こす。忘れようがないものは、たとえ離れた場所にあろうと、鮮明な記憶として現像される。自分を呼ぶ声の届かない、また、奪われることのない宝物としての場所。
世界との繋がりがあること。 “あなたのおかげで、わたしがいる” と言うこと。そのままでいてくれた方がどんなに良いか。穏やかな風に脆い明日を感じるだけで済むか。過去の幻影が声もなく佇んでいる。幻にすらなれなかった亡霊の悲しみと怨嗟が、今か今かと待ち構えている。

とは世界、旅立ちの贈り物。生きとし生けるものの、最初の荷物。純粋に人を想う、助けられたから助けたいと思う、人を案じる、喜ぶ。そして、 “あなたがいることを知っている” と伝える。では、知られなかったものはどこへ? 「私が祝う」「私が、私が、私が、」……。無数の「祝われなかったもの達」の呼び声が這い上がる。お前は祝われないのだと、深く暗い地底の、さらに深いどこかに引きずり込もうとする。声を得たならば、今一度応えるのみ。 “自分と、自分の認めた者の場所を、これ以上奪うな” 。

「祝われなかったもの達」の因果が、じきに巡ってくる。「私知らないことが多かったの」「知らずにたくさんのひどいことしてたの」。与えられた者と、奪われた者。殺された過去が目を覚ます。優しい微笑みを湛えながら郷愁の念を運んだ、あの暖かな蛍の光は巨大に膨れあがり、舞台の裏側まで映そうとする始末だ! 種明かしは唐突に現れる。しかし、思いもよらなかったと言うべきではない。それはいつでもこちらを見ていたのだ。

すべてを繋ぐ鍵は、過去と、呪いと、真実への意志。道具としての言葉は、その人が生きる世界を “あなたはこのように生きるのだ” と定める。ゆえに、奪われたことにすら気付かず、理不尽に奪われる。汚れた水を清めることはできず、人々は呪詛の酒を呷り続けた。
亡霊であれかしと望まれたもの。「人が見た現実(もの)を理解するのは、最終的に言葉なんだよ」。受け継がれてきた憎しみ、呪いの吹き溜まりに落とされた子。言葉によって殺された、あるいは自ら殺した心。
ところが、彼は完全に死んではいなかった! 彼は「人を救う言葉」を知った。呪いを凌駕するものを知った。わずかに生き残った心を見つけた者がいた。呪いの吹き溜まり、光も音もない世界を照らし、確かに手を取って引っ張り上げた一人がいた! ここまで辿り着くために、どれほどの痛みを、燃え尽きた怒りを、諦めを、茫然と見上げるだけの快晴を、打ちひしがれた憎しみと四肢をもがれた愛を、過ぎ去った夢を、見届けてきたと言うのだろうか! 

“共に来てくれるか?” と言った。歴々と続く強大な呪いの領域に共に踏み込んでくれるか、誰にも語ることのなかった過去の物語を、最後まで見届けてくれるか、と。 “こちらに来い” と、決して口にしなかった。呪いによって満たされた存在が、その行く道を相手の心に任せた。定めるものが、どのように定めるか決断を委ねた。
ついに、鐘の音が、文字を、かつての言葉を、世界を呼び起こす。これは追憶の物語。最後の奪われた者、祝われなかった人のもとへ。思い出、悲しみを聞き、語りかけ、祈るために。
誰にも知られることなく再び生きる、彼ら人よ、せめて、悔いのないように。


作業BGM:Harakiri for the Sky “Time Is a Ghost”