2024年6月21日金曜日

夜魔

 

 彼は大きく目を見開くと、止まっていた息を大きく吸って吐き出し、手足が自らの意志で動くことを確かめた。この一瞬の間に何が起こったのか理解しようとして思考を回転させるが、寝起きの頭には追い付かず、ただ茫然と虚空を見つめることしかできない。閉じられたカーテンからかすかに光が差し込み、ようやく彼は自分が世界に戻ってきたことに安堵を覚えた。これまでの一連の出来事に彼は身震いする。それはあまりに突然に起こった。体中のありとあらゆる器官がシャットダウンし、見えない巨大な何かが乱暴に彼をベッドに押し付ける。彼はもがこうとするが身動きを完全に封じ込められ、頭の中で何度も逃げろ、逃げろと自分自身に言い聞かせるが、次元を超えた存在の前では、彼の屈強な身体もただの操り人形に成り下がる。突如襲来した未知なるものは彼の肺に干渉し、じわじわと追い詰めていく。意識の淵に立たされた彼は、正気を保とうとして呼吸を試みるが、ひゅーー、ひゅーーーと、空気が弱々しく擦れる頼りない音だけが遠くの方で聞こえている。薄れゆく視界の中、ふいに何かが足首に触れる気配を感じた。彼はうつぶせで起き上がることすらままならないが、その感触に意識を集中させようとする。それは無数の「手」だった。「手」はどこからともなく這い上がり、自分を闇の中へ引きずりこもうとしているのだと彼は悟った。それは単なる幻だったかもしれない。足のしびれを「手」の感触と錯覚したのかもしれない。彼は一人暮らしだ。この部屋に誰もいるはずがない。誰も入れるはずがない……。しかし彼は、それらがまぎれもなく「手」であることを確信していた。なぜなら、彼を堕とそうと試みる「手」の方向から、地の底から響き渡るような人の「声」が理解し得ない言語で責め立てたからだ。「手」は容赦なく彼を闇の底へ導く。彼はもがく。呼吸がますます荒ぐ。視界が闇に呑まれていく。彼の存在は無数の影のひとつになり消えていく……。

 そうして唐突に彼は世界に帰ってきた。未だにはっきりと覚めない頭の中で、彼は自分を堕とそうとした「手」と「声」のことを考えた。それらは彼の理解の範疇をはるかに超えていた。生きている世界で普段見えることはないが、確かに人間の心の奥底に隠れている、暗く実体を持たないものだった。それらは存在している以上、きっかけさえあればいつでもその人が無意識下で想像した通りの姿を現す。彼は自らの深淵に「手」と「声」の形を与えた。それこそが望んだ心の影だったと彼は気づいた。「手」は彼が戦ってきた数々のトレーナーたちが、 パートナーを信じてボールを空に託し投げた、希望と緊張と勇気の象徴であるとともに、力及ばず勝利を掴めなかった相棒に自らの不甲斐なさを感じさせまいと労うためのものでもあった。「声」はトレーナーたちが自らとパートナーを勝利へと奮い立たせる合図であり、願いの叶わなかった者たちの音のない呻きでもあった。つまるところ彼は、これまで打ち倒してきた何百何千の相手が浮かべたであろう、下を俯き歯を食いしばる姿がいつか自分のものになることを予感した。一度の敗北——たった一度の敗北で、これまで築き上げてきたものが一瞬にして崩れ去ることの恐ろしさ!

 一人でいることに耐えられなくなった彼は寝間着のままで家を飛び出し、一目散に街を駆け抜けた。道中で何人かの早起きな通行人が彼に驚きの目を向けたが、彼の視界は目指す場所以外の何物も映さなかった。彼はある男の所へ向かっていた。その男こそが彼の助けになれるかもしれなかった。互いがまだ少年だったころ、男は彼の前に彗星の如く現れた。素性の知れない人物だったにもかかわらず、彼は長い間待ち焦がれていた何かがようやくやって来たのだという期待を抱いた。それから幾度となく二人は顔を合わせ、彼の期待通り、二人はいつしか互いにとってなくてはならない存在になった。光の体現とさえ言われたことのある彼にとって必要なのは、照らした光が作り出す陰を守ることのできる者だった。彼にはその男こそが救いだった。

 まるであらかじめ予期されていたことだったかのように、男は彼の急な来訪を受け入れた。男は自宅に押しかけた彼をひとまず労い、リビングに通し、コーヒーを一杯淹れた。彼はコーヒーを受け取り、飲むにはまだ熱いマグカップを両手で挟むと、一口、また一口と、ちびちび口を付けた。外を走ったことで冷え切った体が少しずつ温まることにより落ち着きを取り戻した彼は、事の顛末を男に打ち明けた。あくまでも何気なく、しかし、自分を飲み込む得体の知れない何かから救ってくれるようにと、一縷の望みをかけながら。男はただ静かに彼の発する一言一言に耳を傾けていた。それはあまりに突発的な告解ではあったが、その場はいずれ用意されるべきものだった。ひとしきり話を終えた彼は、悪夢を見てから張りつめ続けていた精神が一気に解れたことで、朝方から連絡なしに人の家に乗り込むという迷惑をかけてしまったことに気が付いた。彼は慰めて欲しいような、また一方で咎めて欲しいような感情に揺さぶられ、あれほど雄弁だった口の機能は停止し、代わりに体の芯から沸騰するような熱と湧き上がる汗に苦しめられた。この間にも男は柔らかな笑みを浮かべたまま彼の目を正面から見つめ、彼の身体はもはや自らの意思とは関係ないところまで行ってしまったようだった。やがて男はふっと笑い、視線を外して彼の肩を抱き、囁いた。「来てくれてありがとう。そんなに謝りたそうな顔をしなくてもいいよ。だっておまえはいつでもここに来ていいんだから。おまえが見たものは、きっと何よりも怖かったよな。大丈夫、何も恐れることなんかない。ただ一つ分かるのは、おまえは生きなきゃいけないってことなんだ」