その日も男は手に一輪の花を携え、おれの手に花を押し付けると、道なき道、ぼうぼうに生い茂った草木を構わず掻き分けていくように人混みの中を脇目も振らず歩きはじめた。おれは彼に続く。遠くに聳える山々に目を凝らしてみるとまだ頂上に雪の降った名残がある。街の方は徐々に暖かくなり、息を白く凍らせることも火の前でかじかんだ手をすり合わせることも少なくなったおかげで、人々は着物に比例して重たくなった気分を解放せんとして太陽の下に我先にと集っていった。
「誰もが生きている」と男は言った。
「皆がそれぞれにとって美しいものを好み求める。ここには営みがある。ある者は生活の糧を得るために働き、ある者は学ぶ。夜になればストリートミュージシャンの奏でるアコーディオンに合わせてどこからともなく現れた数人の人間が踊ったことのないタップダンスを始める。やがて賑やかな雰囲気に誘われた周囲の人々は、これぞ人生の醍醐味とでも言わんばかりにその場限りの合唱を一日の締め括りとする。しかし、そのささやかな幸福に与っているのは人だけではない。君の頭に仔細まで書き込まれた地図を想像し、入り組んだ路地裏に足を踏み入れてみるといい。君にとっては言うまでもないが、そこはおよそ人ならざるものたちの領域だ。君も知っているだろう、幽霊と呼ばれる半ば畏怖の念をもって持て囃される類の存在が度々話題に上がるのは、彼らがふと散歩をしようと思い立ちぶらぶら歩いていたところを道に迷い、ひょんなことから別の世界に出てきてしまったところを我々が偶然目にしてしまうからだ。いや、あるいは、何かどうしても言いたいことがあるのに伝えることができず、途方に暮れていたところを俺たちが見つけることもあったか……。ともかく、彼らもまた影に住まう以上、疲れを癒す場所が必要だ。それがこの街にはある。君が守る城を中心として家々が取り囲むように建ち、太陽は全てを照らし、常に日向と日陰を作る。俺は君があの城の高いところから街を見下ろして微笑むのを知っている。君はこの街を愛しているものな。しかし、理由はそれだけだろうか? 君は街を見るが、どこも見ていないのではないか? 街の向こうにある、君にしか見えない何かを見ているのではないか?
俺が君に会う度に手渡す花に何を思った? 君は今まで受け取った花を一つ残らず地下倉庫の一角にしまっておいていることを俺は知っている。俺たちが幼少の頃から待ち合わせ場所にしてきた、あの宝物庫のことだ。君は物心のついたときには既に入り浸っていたようだ。この街の歴史やあらゆる命の源を辿ったのだろう。人類が世界を住処とする以前の神話を、書物を通して見聞きしたのだろう。あの場所は歴史そのものだ。遠い祖先の賢人たちから現代の碩学、あるいは知を求める全ての人々があらん限りの熱意と行動をしてようやく掴んだ、水滴ほどの真実の積み重なりだ。君は全てを見るうちに、君自身にまつわる何かをあの宝物庫に眠る過去の品々に見守られながら密かに残したくなったのだろう? 一目で分かったとも、一輪ずつ丁寧に押し花にして、ガラスの写真立てに挟んで立てかけられていたから。その一角は神聖な場所だった。花の香りのしない楽園だった。暗く埃っぽい空間の中で、ただあの場所だけが常に手入れされていた。さも触れてはいけないものであるかのように急ごしらえの祭壇に祀られているのを見て、呪いの品かと思ったよ。いや、あるいは本当に呪いなのかもしれない……。君は花を枯らしたくなかった。しかしそのままにしておけば必ず枯れてしまう。だから押し花にして、せめて彼女らが最も美しく輝く一瞬のままに留めておきたかった。枯れた花はなお花であり続けようとする。水を与えても元の姿に戻らないし、密かに愛する者の手を恐る恐る取るときのように触れたが最後、たちまち粉々に崩れ落ちる。彼女たちは何故そこまでして姿を保たせようとすると思うか? あれは残り幾許かの命すべてを懸け、たった一つの言葉を伝えるためだけに君に目を向けてもらおうとしているのだ。「どうか私を忘れないで」! 花は見る者を喜ばせるためだけに咲くのではない。叫びだ。臨終に際して目を閉じる最期の瞬間に、絶望、希望、自らがもはや出会うことのない夢、彼方への憧憬を込めた刹那の断末魔だ! 君は計画的に配置された花壇と等間隔に並べられた樹木が始めからそうであったかのように、またこれからもそうであることに疑いもなかったゆえに故郷と勘違いしたままモルタル造りの迷宮を彷徨う蝶だ。君は迷宮をひたすら飛び続ける。自分を生かす花の蜜のかすかな香りを遠くから感じるが、疲労のあまりあちらこちらの壁に体を打ち付け、遂には人知れず地にはたりと倒れる。どこにいるのかも、どこに行くのかも分からないと、薄れゆく意識の中で頭をもたげ天を見上げるそのとき、君は探し求めた故郷の姿を見るのだ!
俺の花で君の世界はますます美しく彩られていくことだろう。何たる安らぎ、何たる希望であることか! 君だけが聞いたこの声は、新しい季節の到来を告げる生ぬるい風、市場の賑わい、心地の良い朝の日差し、建物の影からかつての日々を懐かしんでこちらを窺う亡霊どもの視線、打ち捨てられたトルマリンのペンダントだ。だから、花を陽の当たらない場所に放っておくのはやめてくれ。俺は君が最後に目にする夜明けで、夕焼けで、どこからともなく吹く風だ。その風に運ばれてくる甘く爽やかな草花の香りだ。君が見ている俺の姿は、君がそうだと思った姿に過ぎない。それでも君が、大地や空や火や水に至るあらゆるものを通して俺の名を呼んでくれるのならば、見えるものが何だというのか! 俺たちはとうに星の命よりも遥かに永い時を共に在る運命なのだから、どうして百年の不在を嘆くことができよう? 俺の望みはただ一つ。果てのない草原を走る小川に回る水車の、心地よく絶え間ない響きを君と聞いているような、あの陽だまりの夢の中に君と眠ること、ただそれだけなのだから。時間だ、密かに慕う君よ、この俺がたった一人思い焦がれた君よ。君が俺の名を呼び続けてくれることを願おう」
おれは道の真ん中で一人茫然と佇んでいた。往来は昨日も今日も変わらず街を流れ、明日も途絶えることはないだろう。右手に収められた花の深い青紫の萼は黒目だけを切り抜いた義眼を包み込み、陽光に照らされて透き通り、おれの心を燃やすのだった。