どこまでも高く飛びたかった。
子供のころから、空を見上げることが好きだった。それは、なにか大きなものがひとりでに動いているようだった。一面の青が広がっている日もあれば、灰色の日もあった。天気によって空の色が変わるということは自然と理解していたが、幼かった俺は、自分と同じように、空を命あるものとして捉えていたのかもしれない。自分が気づかないほどゆっくりと時を刻む、世界を覆っているものとして。
家の農場の仕事を手伝っているとき、休憩場所は決まって家の近くの小高い丘だった。そこは一番よく周りを見渡せたから、いつも小さな相棒を連れて行き、二人で時間を過ごした。俺にとって、あの場所は特別だった。そこにいるときは、自分を取り巻くあらゆるものが取り払われて、ただのちっぽけな存在になれた。子供だった俺は薄々と気が付いていた——だれもがそれぞれ、ひとりになれる場所を必要としていることに。なぜなら、そこは自由だから。知らず知らずのうちに嵌めてしまった足枷を、どこかでこっそり外さなければならないから。そこに座って背筋を伸ばし、目を閉じて深呼吸をすると、足から重みがなくなったように感じ、本当に飛んでいるような心地がした。俺は丘の一番高いところに腰を下ろして相棒を膝に乗せ、あちらこちらを指さし、よくこう話しかけていた。
「いつかおまえは、自分の力だけでどこへだっていけるんだぜ」
「あの山の向こうへ、海を越えた先の知らないまちへ、ひとっとびなんだ」
「そしたらおれもつれていってくれよ」
おだやかな風が草原を優しく撫でている。空からどこからともなく綿毛のような天使の群れが運ばれてきて、ふよふよと舞いながら、向こう側に消えていく。小さな俺にとって疑問だったのは、翼は最も楽な移動手段であるにもかかわらず、自分が一向に飛べそうにないことだった。それは人として生まれた存在の宿命ではあるが——さまざまな道具を発明したり、彼らの力を借りたりするなどして「飛べる」ものの——それでも、自分が持ちえないものに対して憧れを抱くのは、大人であろうと子供であろうと変わらない。どこかに行けるのなら、一番速くて遠くに行ける方法がいい。俺も例に漏れず、空を飛ぶことに純粋な憧れを抱く子供のひとりだった。自室の机に積みあがる気象学の図鑑。窓を開ければおのずから聞こえる、知らないがよく知る鳥のさえずり。翼を欲しがる少女の絵本。家族にせがんで買ってもらった、使いどきのわからない羽ペン。床に散乱したスケッチブック。青と水色だけが減ったクレヨン。
それは夢、と呼ぶのだろうか。現実とかけ離れておきながら、あまりに現実味を帯びているもの。それが実際に起こったとき、自分の脳みそは体験した出来事を素直に受け入れるが、もう一人の自分は「これはありえない」と言う。現実ではないと疑うようにできている。本当は、願ってもやまないというのに。
辺りには誰もいなかった。俺は何十回、何百回も立ったことのある、見慣れたスタジアムの真ん中で、ただぼうっとして佇んでいた。しんとした空気に包まれて、俺はフィールドに湧き上がる熱狂に思いを巡らせた。前に進む。向こう側からもう一人がやってくる。二人は出会い、これから起こることに胸を躍らせ、ひたすら開始の合図を待つ。そのとき、俺はひとつの小さな秘密を心に隠している。
試合の直前、相手を見据えるまでの一瞬の間、天蓋に開けた空を仰ぐ。悪さをした子供が親に叱られているとき、親の説教を聞くふりをしながら、頭の中で明日は誰と遊ぼうかと考えるように。教師の退屈な長話をよそに、窓の外に未知の世界を想像するように。身に着けた重たいマントがひとりでにはばたいて、このまま自分を、上へ上へと連れて行ってくれたらいいのにと、叶うはずのない願望を抱きながら、大地にぎゅうと爪先を擦り付けて、重力の存在を確かめる。やがて火蓋は切られる。湧き上がる観客の熱気と歓喜の声が、自らの内に眠る凶暴な何かを呼び起こし、静かに目を開く。
目の前には、大きくなった相棒がいた。周りを見渡してみるが、自分を取り囲んでいるはずの観客は、どこかに消えてしまっていた。俺は駆け寄って彼を抱きしめた。彼は大きくなっても、嬉しいときに尻尾を左右にゆっくり振る仕草だけはずっと変わらない。俺たちはひとしきり再会を喜ぶと、彼は背を向けて屈んだ。どうしたんだ、と声をかけても、彼はじっとそのままの姿勢で待っている。もしかしたら「背中に乗れ」と言っているのかもしれないと思い、彼の頼もしい背に跨り一撫ですると、一吠えして翼を広げ、脚を強く蹴り、飛び立った。
相棒は真上の方へ一直線に飛んでいき、風を切り、雲を突き抜けて駆け上がっていく。俺は彼に落とされないよう、首にしがみついているだけで精一杯だった。まともに前を向くことすらできず、顔を上げたら首が折れそうだったので、引っ込めるしかない。向かい風に煽られて帽子が下に落ちていくのを視界の端に捉えたが、なすすべもない。もっとゆっくり飛んでくれ、と必死に叫ぶ俺の声などお構いなしに、彼はひたすら進む。待って。止まって。お願い。
相棒がスピードをゆるめて、地上の方を振り返った。遠心力の急襲に敗北しそうになりながら、掴まっている首に力を込めて追撃に備えるが、彼はその場に留まって翼を羽ばたかせている。ようやく攻撃が止んだことに安堵し、彼のあたたかい首元に顔をうずめて深呼吸をした。しばらく背中に身をゆだねて落ち着いていると、自分の状況について考える余裕ができた。
いつから彼はいたのだろう。どうして彼は自分の元に現れて、こんなところまで来たのだろう。そしてひとつの疑問に辿り着く。どうして俺はここにいるのだろう。
自分の心の中にいる小さな子供が、ずっと何かを求めて叫んでいる気がした。それこそが知りたかった。おそらく、それが最も大切なことのはずだった。しかし、精一杯思考を巡らせたところで、何の答えも見いだせないことは明らかだった。俺はここに来るまでの間で、すでに疲れ切っていた。もう何もしたくなかった。重たい頭を上げて、ふと前を向く。
広がる景色が視界に飛び込み、目の前の見えない霧がみるみるうちに晴れていく。そこにはすべてがあったが、あまりに遠く離れていた。 俺は目を凝らして、できるだけ多くのものを捉えようとする。あれがスタジアム。下の方には、生まれ育った故郷。横の島は、昔、修行のために旅した場所。結局、どうやって家に帰ったんだっけ。仲間たちが住む街。自分が住んでいる街。地上は意外と緑であふれている。周りは広く海で覆われている。ここからだと指でつまめるくらいの大きさしかないが、海の外側には、地図やニュースでしか見たことのない、広大な大陸が広がっていた。その裏側には、きっと正真正銘の未知なる世界が存在しているに違いなかった。
この空からは、知っているものも知らないものも、すべて見ることができる。眼前の美しい景色を前に、ただ圧倒されていた。でも俺は、ずっとひとつだけを見つめていた。そこは生まれ育った場所。たぶん、最後にもどる場所。なぜなら、そこには多くの「思い出」があった。さっき、真っ先に探した——故郷が、友が、 街が——数えきれないほどの、捨てられない大切な記憶が。
ようやくここに来られた、と思った。安心で満たされると、体中から力が抜けてきた。相棒の背に凭れる。すこし眠たい。まぶたを閉じる。息を深く吸う。ゆっくりと吐く。かすかな心臓の音が聞こえる。音はだんだん小さくなっていく。やがて意識は去る。
◇◇◇
再生停止ボタンをタップして、また歩き始める。ぶらぶらと散歩するときのように、周囲を見渡してみる。春の陽気に誘われて、誰もが浮かれているようだ。老若男女の声が入り混じった雑踏。傍を走り去っていく子供たち。どこからか漂ってくるスパイスの香り。この後はパエリアでも食べに行こうか、とふと思いつく。
録画したいから今の話をもう一度してほしいと頼んだら、お前は本気か、とでも言いたげな顔をされた。訝しむのも当然だ。人の夢の話を録るだなんて。でも、どういうわけか、やらないといけないと思った。 この話は大切にとっておかなければならないと。サーバーの砂浜に大切にしまっておいて、いつでも取り出せるように。埋めておいた宝物を、遠い未来の誰かが見つけてくれるように 。だから、記録しない手なんてなかった。
そうこうしているうちに、目的の場所に着いていた。慣れた手続きを済ませ、すっかり顔なじみになった受付に会釈をし、エレベーターに乗る。無機質な音が目的の階に止まったことを知らせ、ドアが開く。ゆっくりとした足取りで部屋に向かう。 周りに迷惑がかからない程度にこっそり鼻歌を歌っていると、何だか悪いことをしている気分になる。
部屋の前に着いた。一応の礼儀としてノックをするが、いつものように反応はない。勝手に部屋に入る。カーテンと窓を開けた。雲一つない青空がまぶしい。やわらかな陽光が差し、 心地の良い空気が部屋を満たす。大きく深呼吸をすると、体中が軽やかになってくる。まるでこのまま飛んでいけるみたいに。
ふう、と一息ついて、おもむろに後ろを振り向く。その男は、整えられたベッドの上で穏やかに寝息を立てている。真白いシーツが彼の背に同じ色の翼を描いている。