2024年6月29日土曜日

『奪界』1_三人の王

地獄の王の称号は、ただ一人にのみ与えられる。唯一の王冠は、その宿主を乗り換えるかのように、奪い、奪われ、当て処なき旅を行く。血に塗れた果てしない彷徨の向こう側に輝く王座はヴェールに覆われてたまま。なるべくして集う者たちは、僭称する者であれ、望まれた者であれ、理由と思惑と世界とを持つ。さぞ美しい光景だろう、かれ自身の内にしか存在し得ない、片時も忘れることのなかった理想郷に辿り着くことができたのならば。そして、地獄を我がものにせんと、この世界に三人の王たりうる者が名乗りを上げた。


最初の人類。人間の王。居場所を約束された者。アダムの自由とは、約束されたものが間違いなく自分のものであるということ。自分がはじまりであり、自分がいなければほとんど何も始まらなかったということ。自由である状態が彼の居場所である。戦うことは何かを得るためのものではなく、むしろ自らの力を示すために行われる儀式のような意味を持つ。約束された凱旋、君臨の合図。世界は自分のものでなければならない。世界の脅威は、何者であっても彼の領域に踏み入れてはならない。アダムの自由はアダムのためにのみ存在する。ゆえに彼は戦う、自らの良しとする自由のために、自己の愛のために。世界を失われると感じるや否や、玩具を取り上げられた子供のように不満を募らせる。地獄への度重なる侵攻の先に、伴侶の夢を見ているのだろうか?


対して地獄の王は、一人娘の道行を照らす灯りを点けるべく、赤黒く沈んだ世界を飛び回る、今まさに失ってはならないものを抱えた三人の王のうちのただ一人である。ルシファーは純粋ゆえに認められず、居場所を追われた。ひとつの星だけが圧倒的な輝きを放つことは、昔の仲間よりもむしろ、空が認めなかった。星は星々でなければならなかった。彼の自由は可能性、未知、光への意志。そして、一歩進むということ、あるいはそうなるはずだった過去の自分への、少しばかりの悔恨。「自分もかつてはそうだった」と言うときの、縋るような諦め。ルシファーはすでに堕とされた存在であるがゆえに、その地での生を守るものとなり、愛は専ら娘に注がれている。アダムが侵略するならば、ルシファーはその対称の性格を持つ。すなわち、戦いとは防戦の形をとる。守るべき存在を脅かすものは、誰であろうと彼の前に倒れる。迂闊に刃を向けた反逆者に対しては、王たる者の本領が発揮するだろう。それは圧倒的な力で劇場を支配し、観客を呆然とさせる圧巻の手品だ。しかし、実際にフィナーレを飾ったのは、舞台に飛び込んだ一人の少女だったが……。


目指すのならば、行かなければならない。自分を陥れたものへの怒りを胸に、自由を希求する。あまりにも遠く高い居場所を取り戻すこの願いが達成されない限り、アラスターはどこであろうと安住することはない。自ら立ちはだかり、自らを恐れる。恐ろしい看守でありながら怯える囚人。罰する者でありながら罰を受ける者。罪人であるがゆえに、死してなお鎖が頸を締め付ける。アラスターは課せられた鎖を断ち切るために戦う。そして、自分が鎖に繋がれていることも知らず、また知っていても身の回りの小事にかかずらううちにいつしか歩き方すらおぼつかなくなってしまった顔のない亡霊の群れに、憎しみの叫びを轟かせる。それは一人にのみ与えられる称号。アラスターもまた、自身の力を示すため戦いに身を投じているが、他の「王」たちとは異なり、きわめて個人的な動機による。かつて天界に住まう偉大な天使は、反逆の咎を負って地獄に追放された。しかし、彼は立ち上がり、数多くの仲間を勇気を奮い立たせるようになるまで鼓舞し、やがて天界への復讐のためにひとり飛び立った。純粋な闘志、怒りと戦いへの切実な意志。暗く低い場所から見える最も美しい彼だけの光は、見上げようともどこにもない。それは目を閉じた世界の裏側で燃え続ける消えない灯りだ。彼は荒れた大地をひとり歩く。幕引きは未だ遠い。

2024年6月23日日曜日

『言解きの魔法使い』1巻 感想

言葉に囚われ、言葉に救われる。言葉を失い、言葉を取り戻す。ときには明瞭に、また或るときには幻のように現れる怪物は、かつて人間だった青年が好んだ物語の数々。文字となった身体の一部は館を彷徨う記憶の亡霊。ナツメは言葉を「解く」。自分だったもの=言葉を殺し、燃やし、いつか全てが終わり再び人になるまで、戦い続ける。

元凶の魔女もまた館に囚われている。ほとんど子供的な純粋さをもって、まるで館が世界のすべてであるかのように振る舞うが、最後には倒されなければならない。名もなき彼女は、在りし日ののナツメが持たなかった心だろうか。子供らしくあること、許されること、ただ笑いたいままに笑い、泣き、怒ること。それは学生時代の回想の時点ですでに失われていた。

「君みたいなのをよく視るからね。」
「いっつも大勢の人間に囲まれて笑ってんのに、どこかずっと冷めた目をしてて、何考えてるかさっぱりですよ。」

生きている者と死んでいる者の区別はもはや無い。取り巻きすらも、話す死者と変わりは無い。その中で、いずれ死すべき有象無象のひとりだったはずの人間が、自分自身に向かって言い放った、「邪魔です」。
矢萩にとっては、単に邪魔だったから言っただけのことだったかもしれない。しかし、この瞬間にナツメの世界は動き出す。貿易会社の若社長として見られること、またそのように振る舞うこと、どこまでも「家」の人間であること、「家」という道理のもとで生きること。矢萩はたったの一言で、ひとりの人間の道理を変えた。

救われたはずの人間は、言葉と文字を操る魔法使いに成り果て、再び、文字=言葉=世界に囚われた。かつて自身の世界の道理をひとりの言葉で変えられた人間は、世界の道理を言葉によって捻じ曲げる存在となった。ナツメは館から出ることはできない。魔法使いでない限り、人が入ることもない。館は書物を納める領域であることの役割を越えて、彼の世界そのものとなった。この館に入ることは、彼の世界に足を踏み入れ、向き合うことを意味する。自分のために閉じられた世界は、他でもない自分によって終わらせるべきであり、だからこそ、たった一人の親友に別れを告げようとした。それでも矢萩は門の中に入った。友の行く末を見届ける覚悟はとうにあった。

これは過去の再演だ。一度世界から救われ、再び世界に囚われた者の、決別と解放の物語だ。言葉の牢獄から脱却し、もう一度、窓の向こうに輝く陽光のもとにゆく日まで、男は燃える炎の剣を振るうのだ。


作業BGM:Jakob “Blind Them With Silence”

2024年6月21日金曜日

欠片


 その日も男は手に一輪の花を携え、おれの手に花を押し付けると、道なき道、ぼうぼうに生い茂った草木を構わず掻き分けていくように人混みの中を脇目も振らず歩きはじめた。おれは彼に続く。遠くに聳える山々に目を凝らしてみるとまだ頂上に雪の降った名残がある。街の方は徐々に暖かくなり、息を白く凍らせることも火の前でかじかんだ手をすり合わせることも少なくなったおかげで、人々は着物に比例して重たくなった気分を解放せんとして太陽の下に我先にと集っていった。

 「誰もが生きている」と男は言った。

 「皆がそれぞれにとって美しいものを好み求める。ここには営みがある。ある者は生活の糧を得るために働き、ある者は学ぶ。夜になればストリートミュージシャンの奏でるアコーディオンに合わせてどこからともなく現れた数人の人間が踊ったことのないタップダンスを始める。やがて賑やかな雰囲気に誘われた周囲の人々は、これぞ人生の醍醐味とでも言わんばかりにその場限りの合唱を一日の締め括りとする。しかし、そのささやかな幸福に与っているのは人だけではない。君の頭に仔細まで書き込まれた地図を想像し、入り組んだ路地裏に足を踏み入れてみるといい。君にとっては言うまでもないが、そこはおよそ人ならざるものたちの領域だ。君も知っているだろう、幽霊と呼ばれる半ば畏怖の念をもって持て囃される類の存在が度々話題に上がるのは、彼らがふと散歩をしようと思い立ちぶらぶら歩いていたところを道に迷い、ひょんなことから別の世界に出てきてしまったところを我々が偶然目にしてしまうからだ。いや、あるいは、何かどうしても言いたいことがあるのに伝えることができず、途方に暮れていたところを俺たちが見つけることもあったか……。ともかく、彼らもまた影に住まう以上、疲れを癒す場所が必要だ。それがこの街にはある。君が守る城を中心として家々が取り囲むように建ち、太陽は全てを照らし、常に日向と日陰を作る。俺は君があの城の高いところから街を見下ろして微笑むのを知っている。君はこの街を愛しているものな。しかし、理由はそれだけだろうか? 君は街を見るが、どこも見ていないのではないか? 街の向こうにある、君にしか見えない何かを見ているのではないか?

 俺が君に会う度に手渡す花に何を思った? 君は今まで受け取った花を一つ残らず地下倉庫の一角にしまっておいていることを俺は知っている。俺たちが幼少の頃から待ち合わせ場所にしてきた、あの宝物庫のことだ。君は物心のついたときには既に入り浸っていたようだ。この街の歴史やあらゆる命の源を辿ったのだろう。人類が世界を住処とする以前の神話を、書物を通して見聞きしたのだろう。あの場所は歴史そのものだ。遠い祖先の賢人たちから現代の碩学、あるいは知を求める全ての人々があらん限りの熱意と行動をしてようやく掴んだ、水滴ほどの真実の積み重なりだ。君は全てを見るうちに、君自身にまつわる何かをあの宝物庫に眠る過去の品々に見守られながら密かに残したくなったのだろう? 一目で分かったとも、一輪ずつ丁寧に押し花にして、ガラスの写真立てに挟んで立てかけられていたから。その一角は神聖な場所だった。花の香りのしない楽園だった。暗く埃っぽい空間の中で、ただあの場所だけが常に手入れされていた。さも触れてはいけないものであるかのように急ごしらえの祭壇に祀られているのを見て、呪いの品かと思ったよ。いや、あるいは本当に呪いなのかもしれない……。君は花を枯らしたくなかった。しかしそのままにしておけば必ず枯れてしまう。だから押し花にして、せめて彼女らが最も美しく輝く一瞬のままに留めておきたかった。枯れた花はなお花であり続けようとする。水を与えても元の姿に戻らないし、密かに愛する者の手を恐る恐る取るときのように触れたが最後、たちまち粉々に崩れ落ちる。彼女たちは何故そこまでして姿を保たせようとすると思うか? あれは残り幾許かの命すべてを懸け、たった一つの言葉を伝えるためだけに君に目を向けてもらおうとしているのだ。「どうか私を忘れないで」! 花は見る者を喜ばせるためだけに咲くのではない。叫びだ。臨終に際して目を閉じる最期の瞬間に、絶望、希望、自らがもはや出会うことのない夢、彼方への憧憬を込めた刹那の断末魔だ! 君は計画的に配置された花壇と等間隔に並べられた樹木が始めからそうであったかのように、またこれからもそうであることに疑いもなかったゆえに故郷と勘違いしたままモルタル造りの迷宮を彷徨う蝶だ。君は迷宮をひたすら飛び続ける。自分を生かす花の蜜のかすかな香りを遠くから感じるが、疲労のあまりあちらこちらの壁に体を打ち付け、遂には人知れず地にはたりと倒れる。どこにいるのかも、どこに行くのかも分からないと、薄れゆく意識の中で頭をもたげ天を見上げるそのとき、君は探し求めた故郷の姿を見るのだ!

 俺の花で君の世界はますます美しく彩られていくことだろう。何たる安らぎ、何たる希望であることか! 君だけが聞いたこの声は、新しい季節の到来を告げる生ぬるい風、市場の賑わい、心地の良い朝の日差し、建物の影からかつての日々を懐かしんでこちらを窺う亡霊どもの視線、打ち捨てられたトルマリンのペンダントだ。だから、花を陽の当たらない場所に放っておくのはやめてくれ。俺は君が最後に目にする夜明けで、夕焼けで、どこからともなく吹く風だ。その風に運ばれてくる甘く爽やかな草花の香りだ。君が見ている俺の姿は、君がそうだと思った姿に過ぎない。それでも君が、大地や空や火や水に至るあらゆるものを通して俺の名を呼んでくれるのならば、見えるものが何だというのか! 俺たちはとうに星の命よりも遥かに永い時を共に在る運命なのだから、どうして百年の不在を嘆くことができよう? 俺の望みはただ一つ。果てのない草原を走る小川に回る水車の、心地よく絶え間ない響きを君と聞いているような、あの陽だまりの夢の中に君と眠ること、ただそれだけなのだから。時間だ、密かに慕う君よ、この俺がたった一人思い焦がれた君よ。君が俺の名を呼び続けてくれることを願おう」


 おれは道の真ん中で一人茫然と佇んでいた。往来は昨日も今日も変わらず街を流れ、明日も途絶えることはないだろう。右手に収められた花の深い青紫の萼は黒目だけを切り抜いた義眼を包み込み、陽光に照らされて透き通り、おれの心を燃やすのだった。

夜魔

 

 彼は大きく目を見開くと、止まっていた息を大きく吸って吐き出し、手足が自らの意志で動くことを確かめた。この一瞬の間に何が起こったのか理解しようとして思考を回転させるが、寝起きの頭には追い付かず、ただ茫然と虚空を見つめることしかできない。閉じられたカーテンからかすかに光が差し込み、ようやく彼は自分が世界に戻ってきたことに安堵を覚えた。これまでの一連の出来事に彼は身震いする。それはあまりに突然に起こった。体中のありとあらゆる器官がシャットダウンし、見えない巨大な何かが乱暴に彼をベッドに押し付ける。彼はもがこうとするが身動きを完全に封じ込められ、頭の中で何度も逃げろ、逃げろと自分自身に言い聞かせるが、次元を超えた存在の前では、彼の屈強な身体もただの操り人形に成り下がる。突如襲来した未知なるものは彼の肺に干渉し、じわじわと追い詰めていく。意識の淵に立たされた彼は、正気を保とうとして呼吸を試みるが、ひゅーー、ひゅーーーと、空気が弱々しく擦れる頼りない音だけが遠くの方で聞こえている。薄れゆく視界の中、ふいに何かが足首に触れる気配を感じた。彼はうつぶせで起き上がることすらままならないが、その感触に意識を集中させようとする。それは無数の「手」だった。「手」はどこからともなく這い上がり、自分を闇の中へ引きずりこもうとしているのだと彼は悟った。それは単なる幻だったかもしれない。足のしびれを「手」の感触と錯覚したのかもしれない。彼は一人暮らしだ。この部屋に誰もいるはずがない。誰も入れるはずがない……。しかし彼は、それらがまぎれもなく「手」であることを確信していた。なぜなら、彼を堕とそうと試みる「手」の方向から、地の底から響き渡るような人の「声」が理解し得ない言語で責め立てたからだ。「手」は容赦なく彼を闇の底へ導く。彼はもがく。呼吸がますます荒ぐ。視界が闇に呑まれていく。彼の存在は無数の影のひとつになり消えていく……。

 そうして唐突に彼は世界に帰ってきた。未だにはっきりと覚めない頭の中で、彼は自分を堕とそうとした「手」と「声」のことを考えた。それらは彼の理解の範疇をはるかに超えていた。生きている世界で普段見えることはないが、確かに人間の心の奥底に隠れている、暗く実体を持たないものだった。それらは存在している以上、きっかけさえあればいつでもその人が無意識下で想像した通りの姿を現す。彼は自らの深淵に「手」と「声」の形を与えた。それこそが望んだ心の影だったと彼は気づいた。「手」は彼が戦ってきた数々のトレーナーたちが、 パートナーを信じてボールを空に託し投げた、希望と緊張と勇気の象徴であるとともに、力及ばず勝利を掴めなかった相棒に自らの不甲斐なさを感じさせまいと労うためのものでもあった。「声」はトレーナーたちが自らとパートナーを勝利へと奮い立たせる合図であり、願いの叶わなかった者たちの音のない呻きでもあった。つまるところ彼は、これまで打ち倒してきた何百何千の相手が浮かべたであろう、下を俯き歯を食いしばる姿がいつか自分のものになることを予感した。一度の敗北——たった一度の敗北で、これまで築き上げてきたものが一瞬にして崩れ去ることの恐ろしさ!

 一人でいることに耐えられなくなった彼は寝間着のままで家を飛び出し、一目散に街を駆け抜けた。道中で何人かの早起きな通行人が彼に驚きの目を向けたが、彼の視界は目指す場所以外の何物も映さなかった。彼はある男の所へ向かっていた。その男こそが彼の助けになれるかもしれなかった。互いがまだ少年だったころ、男は彼の前に彗星の如く現れた。素性の知れない人物だったにもかかわらず、彼は長い間待ち焦がれていた何かがようやくやって来たのだという期待を抱いた。それから幾度となく二人は顔を合わせ、彼の期待通り、二人はいつしか互いにとってなくてはならない存在になった。光の体現とさえ言われたことのある彼にとって必要なのは、照らした光が作り出す陰を守ることのできる者だった。彼にはその男こそが救いだった。

 まるであらかじめ予期されていたことだったかのように、男は彼の急な来訪を受け入れた。男は自宅に押しかけた彼をひとまず労い、リビングに通し、コーヒーを一杯淹れた。彼はコーヒーを受け取り、飲むにはまだ熱いマグカップを両手で挟むと、一口、また一口と、ちびちび口を付けた。外を走ったことで冷え切った体が少しずつ温まることにより落ち着きを取り戻した彼は、事の顛末を男に打ち明けた。あくまでも何気なく、しかし、自分を飲み込む得体の知れない何かから救ってくれるようにと、一縷の望みをかけながら。男はただ静かに彼の発する一言一言に耳を傾けていた。それはあまりに突発的な告解ではあったが、その場はいずれ用意されるべきものだった。ひとしきり話を終えた彼は、悪夢を見てから張りつめ続けていた精神が一気に解れたことで、朝方から連絡なしに人の家に乗り込むという迷惑をかけてしまったことに気が付いた。彼は慰めて欲しいような、また一方で咎めて欲しいような感情に揺さぶられ、あれほど雄弁だった口の機能は停止し、代わりに体の芯から沸騰するような熱と湧き上がる汗に苦しめられた。この間にも男は柔らかな笑みを浮かべたまま彼の目を正面から見つめ、彼の身体はもはや自らの意思とは関係ないところまで行ってしまったようだった。やがて男はふっと笑い、視線を外して彼の肩を抱き、囁いた。「来てくれてありがとう。そんなに謝りたそうな顔をしなくてもいいよ。だっておまえはいつでもここに来ていいんだから。おまえが見たものは、きっと何よりも怖かったよな。大丈夫、何も恐れることなんかない。ただ一つ分かるのは、おまえは生きなきゃいけないってことなんだ」

sincère



 光の中を二人の男が歩いている。一人は前を、一人は後ろを。繋がれた手を頼りに、当てのない道を進む。果たして彼は本当に手を引いているのか、それとも繋ぐ手があると信じようとしているのか?初めに言っておくが、これは紛れもない夢だ。ただ一人の男のちっぽけな願いだ。俺がこうあって欲しいと思ったからこんな夢を見ているのだ。お前がどう思っているかは分からない。俺は自分の弱さ故に、片足の一つも差し出せないのだから。しかしだ、もしお前がお前の思うままに連れて行ってくれるのだとしたら、それはどこであろうと宇宙であり、遥か彼方の孤島でもある。祈ることくらいは許してくれないか? どこでもない場所で共に在れるのなら。その心の片隅に膝を抱えて蹲っている小さな子供は誰だ?もう俺には現在というものが分からない。不確かな羅針盤が嫌と言うほどに頭の中を回り続けている。確かに分からない、分からないが、精神の監獄に俺が閉じ込めた本当の思いに、お前以外の一体誰が気付けるとでも! これはお前のための願いだ。俺のための希望だ。見えるだろう、お前の血を、肉を糧にして、大地は花咲く! お前は生まれるべくして生まれたのだし、俺も在るべくして在るのだと信じたい。お前の薔薇は愛を根こそぎ養分とする。不安な予感と共に芽を出し、小さな針は体を蝕み、やがて耐えきれないほどの苦痛がお前の表へ蔓を伸ばし現れる。激痛に呻き、苦しみ、それでも未来を信じて疑わないお前に、俺は心から応えよう。お前の檻が壊れないのは、俺が鍵を持っているからだ。最後の一手を委ねるがいい。お前の最も美しいものを、俺は棘もろとも食らいつくしてみせよう! ああ、何て悲しく、優しいのだろう! お前の愛は俺の掌を血塗れにし、容赦無く口と喉と内臓を裂く。泣くな、そんな顔をするな。そうだ、それでいい
……これが本当の俺なのだ。俺はお前をひとりにしない。その痛みは俺のものであるべきだ。お願いだ、どうかここにいてくれないか。触れ合えども感じることはできず、食らえども腹は満たされず、また食われようと心は満たされず、飽き足らぬ欲は互いの背を追い続け、やがて一方がもう一方を捕らえると縺れたままどこまでも天体の中を転がり落ちていく……。しかし、どこかの星には辿り着けるだろうさ。行こう、どこかに行こう。お前が行くということは今や俺が行くことと同じなのだから。鳥よ唄ってくれ、俺たちの愚かで愛おしい結末を。俺たちの願いを聞いてくれ。蜂は日の元に、蝶は夜の影に集うだろう。悠久は確かに存在するし、最果てもまた俺たちを見守っているのだ。彼方から軽やかな春の土の香りがする……。俺はここで待っているからいつでも来るといい。ただし、最後に会うと誓ったあの日のことは忘れてくれるなよ。



 どこまでも高く飛びたかった。

 子供のころから、空を見上げることが好きだった。それは、なにか大きなものがひとりでに動いているようだった。一面の青が広がっている日もあれば、灰色の日もあった。天気によって空の色が変わるということは自然と理解していたが、幼かった俺は、自分と同じように、空を命あるものとして捉えていたのかもしれない。自分が気づかないほどゆっくりと時を刻む、世界を覆っているものとして。

 家の農場の仕事を手伝っているとき、休憩場所は決まって家の近くの小高い丘だった。そこは一番よく周りを見渡せたから、いつも小さな相棒を連れて行き、二人で時間を過ごした。俺にとって、あの場所は特別だった。そこにいるときは、自分を取り巻くあらゆるものが取り払われて、ただのちっぽけな存在になれた。子供だった俺は薄々と気が付いていた——だれもがそれぞれ、ひとりになれる場所を必要としていることに。なぜなら、そこは自由だから。知らず知らずのうちに嵌めてしまった足枷を、どこかでこっそり外さなければならないから。そこに座って背筋を伸ばし、目を閉じて深呼吸をすると、足から重みがなくなったように感じ、本当に飛んでいるような心地がした。俺は丘の一番高いところに腰を下ろして相棒を膝に乗せ、あちらこちらを指さし、よくこう話しかけていた。

 「いつかおまえは、自分の力だけでどこへだっていけるんだぜ」

 「あの山の向こうへ、海を越えた先の知らないまちへ、ひとっとびなんだ」

 「そしたらおれもつれていってくれよ」

 おだやかな風が草原を優しく撫でている。空からどこからともなく綿毛のような天使の群れが運ばれてきて、ふよふよと舞いながら、向こう側に消えていく。小さな俺にとって疑問だったのは、翼は最も楽な移動手段であるにもかかわらず、自分が一向に飛べそうにないことだった。それは人として生まれた存在の宿命ではあるが——さまざまな道具を発明したり、彼らの力を借りたりするなどして「飛べる」ものの——それでも、自分が持ちえないものに対して憧れを抱くのは、大人であろうと子供であろうと変わらない。どこかに行けるのなら、一番速くて遠くに行ける方法がいい。俺も例に漏れず、空を飛ぶことに純粋な憧れを抱く子供のひとりだった。自室の机に積みあがる気象学の図鑑。窓を開ければおのずから聞こえる、知らないがよく知る鳥のさえずり。翼を欲しがる少女の絵本。家族にせがんで買ってもらった、使いどきのわからない羽ペン。床に散乱したスケッチブック。青と水色だけが減ったクレヨン。


 それは夢、と呼ぶのだろうか。現実とかけ離れておきながら、あまりに現実味を帯びているもの。それが実際に起こったとき、自分の脳みそは体験した出来事を素直に受け入れるが、もう一人の自分は「これはありえない」と言う。現実ではないと疑うようにできている。本当は、願ってもやまないというのに。

 辺りには誰もいなかった。俺は何十回、何百回も立ったことのある、見慣れたスタジアムの真ん中で、ただぼうっとして佇んでいた。しんとした空気に包まれて、俺はフィールドに湧き上がる熱狂に思いを巡らせた。前に進む。向こう側からもう一人がやってくる。二人は出会い、これから起こることに胸を躍らせ、ひたすら開始の合図を待つ。そのとき、俺はひとつの小さな秘密を心に隠している。

 試合の直前、相手を見据えるまでの一瞬の間、天蓋に開けた空を仰ぐ。悪さをした子供が親に叱られているとき、親の説教を聞くふりをしながら、頭の中で明日は誰と遊ぼうかと考えるように。教師の退屈な長話をよそに、窓の外に未知の世界を想像するように。身に着けた重たいマントがひとりでにはばたいて、このまま自分を、上へ上へと連れて行ってくれたらいいのにと、叶うはずのない願望を抱きながら、大地にぎゅうと爪先を擦り付けて、重力の存在を確かめる。やがて火蓋は切られる。湧き上がる観客の熱気と歓喜の声が、自らの内に眠る凶暴な何かを呼び起こし、静かに目を開く。

 目の前には、大きくなった相棒がいた。周りを見渡してみるが、自分を取り囲んでいるはずの観客は、どこかに消えてしまっていた。俺は駆け寄って彼を抱きしめた。彼は大きくなっても、嬉しいときに尻尾を左右にゆっくり振る仕草だけはずっと変わらない。俺たちはひとしきり再会を喜ぶと、彼は背を向けて屈んだ。どうしたんだ、と声をかけても、彼はじっとそのままの姿勢で待っている。もしかしたら「背中に乗れ」と言っているのかもしれないと思い、彼の頼もしい背に跨り一撫ですると、一吠えして翼を広げ、脚を強く蹴り、飛び立った。

 相棒は真上の方へ一直線に飛んでいき、風を切り、雲を突き抜けて駆け上がっていく。俺は彼に落とされないよう、首にしがみついているだけで精一杯だった。まともに前を向くことすらできず、顔を上げたら首が折れそうだったので、引っ込めるしかない。向かい風に煽られて帽子が下に落ちていくのを視界の端に捉えたが、なすすべもない。もっとゆっくり飛んでくれ、と必死に叫ぶ俺の声などお構いなしに、彼はひたすら進む。待って。止まって。お願い。

 相棒がスピードをゆるめて、地上の方を振り返った。遠心力の急襲に敗北しそうになりながら、掴まっている首に力を込めて追撃に備えるが、彼はその場に留まって翼を羽ばたかせている。ようやく攻撃が止んだことに安堵し、彼のあたたかい首元に顔をうずめて深呼吸をした。しばらく背中に身をゆだねて落ち着いていると、自分の状況について考える余裕ができた。

 いつから彼はいたのだろう。どうして彼は自分の元に現れて、こんなところまで来たのだろう。そしてひとつの疑問に辿り着く。どうして俺はここにいるのだろう。


 自分の心の中にいる小さな子供が、ずっと何かを求めて叫んでいる気がした。それこそが知りたかった。おそらく、それが最も大切なことのはずだった。しかし、精一杯思考を巡らせたところで、何の答えも見いだせないことは明らかだった。俺はここに来るまでの間で、すでに疲れ切っていた。もう何もしたくなかった。重たい頭を上げて、ふと前を向く。

 広がる景色が視界に飛び込み、目の前の見えない霧がみるみるうちに晴れていく。そこにはすべてがあったが、あまりに遠く離れていた。 俺は目を凝らして、できるだけ多くのものを捉えようとする。あれがスタジアム。下の方には、生まれ育った故郷。横の島は、昔、修行のために旅した場所。結局、どうやって家に帰ったんだっけ。仲間たちが住む街。自分が住んでいる街。地上は意外と緑であふれている。周りは広く海で覆われている。ここからだと指でつまめるくらいの大きさしかないが、海の外側には、地図やニュースでしか見たことのない、広大な大陸が広がっていた。その裏側には、きっと正真正銘の未知なる世界が存在しているに違いなかった。

  この空からは、知っているものも知らないものも、すべて見ることができる。眼前の美しい景色を前に、ただ圧倒されていた。でも俺は、ずっとひとつだけを見つめていた。そこは生まれ育った場所。たぶん、最後にもどる場所。なぜなら、そこには多くの「思い出」があった。さっき、真っ先に探した——故郷が、友が、 街が——数えきれないほどの、捨てられない大切な記憶が。

 ようやくここに来られた、と思った。安心で満たされると、体中から力が抜けてきた。相棒の背に凭れる。すこし眠たい。まぶたを閉じる。息を深く吸う。ゆっくりと吐く。かすかな心臓の音が聞こえる。音はだんだん小さくなっていく。やがて意識は去る。


◇◇◇


 再生停止ボタンをタップして、また歩き始める。ぶらぶらと散歩するときのように、周囲を見渡してみる。春の陽気に誘われて、誰もが浮かれているようだ。老若男女の声が入り混じった雑踏。傍を走り去っていく子供たち。どこからか漂ってくるスパイスの香り。この後はパエリアでも食べに行こうか、とふと思いつく。

 録画したいから今の話をもう一度してほしいと頼んだら、お前は本気か、とでも言いたげな顔をされた。訝しむのも当然だ。人の夢の話を録るだなんて。でも、どういうわけか、やらないといけないと思った。 この話は大切にとっておかなければならないと。サーバーの砂浜に大切にしまっておいて、いつでも取り出せるように。埋めておいた宝物を、遠い未来の誰かが見つけてくれるように 。だから、記録しない手なんてなかった。

 そうこうしているうちに、目的の場所に着いていた。慣れた手続きを済ませ、すっかり顔なじみになった受付に会釈をし、エレベーターに乗る。無機質な音が目的の階に止まったことを知らせ、ドアが開く。ゆっくりとした足取りで部屋に向かう。 周りに迷惑がかからない程度にこっそり鼻歌を歌っていると、何だか悪いことをしている気分になる。

 部屋の前に着いた。一応の礼儀としてノックをするが、いつものように反応はない。勝手に部屋に入る。カーテンと窓を開けた。雲一つない青空がまぶしい。やわらかな陽光が差し、 心地の良い空気が部屋を満たす。大きく深呼吸をすると、体中が軽やかになってくる。まるでこのまま飛んでいけるみたいに。

 ふう、と一息ついて、おもむろに後ろを振り向く。その男は、整えられたベッドの上で穏やかに寝息を立てている。真白いシーツが彼の背に同じ色の翼を描いている。

『奪界』序



目が覚めると、そこは一面の泥沼だった。存在は死に、腐敗した景色が見渡す限り広がっている。生物は肉を剝がされてくすんだ白骨を露わにし、また、地上で名を知らない人間はいなかったほどの立派な人物も、最早かつての所業の要約でしかない。あらゆるものが鈍重になり、未来は確定した行動の繰り返しであるが故に、未来を語るものはいない。

死んだ世界を歩き続ける。きつい酒は心臓を焼き、言葉の燃え滓が口からこぼれ落ちる。誰もが多かれ少なかれ自身の悲しみを吐露することが良しとされ、この暗い地の底を表す名にふさわしい。一様に嘆き、今を憂い先を悲しみ、その乾杯は仲間の合図にして停止の号令となる。独房から監視塔に向かって祈りを捧げる囚人は光を迎えることすら能わず、監視を恐れるほかに何もできることはない。

しかし、あまりに多くの人口を抱えすぎたこの巨大な地底世界にあって、一人くらいは地をふんじばり空を睨みつけていても何ら不思議ではない。これは崇高で孤独な喜劇であるが、彼は最初の観客たちを忘れはしない。ここでは誰もが嘆いているが、笑っている者もいると知ったとき、己自身によってのみ成し遂げられる、燃え続ける雲に覆われた国においてただ一人の笑う者になるという決心が彼に二度目の命を呼び戻す。最も暗い場所にて投げかけられた燦曦によって再び立ち上がることができる。一度地に堕とされたとしても、輝ける太陽の王国を打ち建てるべく、彼は墓場から蘇った。彼の声は恐ろしいほどに残忍で揺るぎなく語り掛ける。いつまでそこに這いつくばっているつもりなのか? わたしはとうの昔に決めたのだ、悲しむことを定められたこの地底で、勝利の笑いを突きつけると! なにゆえ生き、死んだのか。どうして苦しむことなしにわたしの太陽を求められよう? そうだ、自分が自分である限り、この苦しみは続くのだ。だからといって、わたしであることをどうやって手放せるだろうか!

彼は歩みを止めることはない。彼の薔薇は寂れた大地に咲くには相応しくない。誓いは高らかに。「地獄は俺のもの」だ。