2024年12月30日月曜日

【再録】ノウン(KBDN魔法パロアンソロジー)

16.破壊された塔 THE BLASTED TOWER
 
南の果て、彼がそうと知らずに暮らすその南の果て、少年は育ち盛りのわずか手前といった細い腕を広げ、腰が隠れるほどの麦穂はなすがままに身を傾ける。風は遠方からの報せを少年にもたらすが、彼に風の言葉が分からないのは、丘の麓に見える隣町と一帯を囲う山々の先に自分と家族以外の人間が生活していることが想像することができないのと同様に、彼にとって 「向こう側」 のものだからである。少年にとっての世界とはこのようなものだった。まず、母がいた。自分よりも幼い弟がいた。祖父母がいた。父はいたかもしれないがいなかったかもしれなかった。自室の窓はいつも同じ景色を映していた。緑の丘と、畑、広がる穂が規則的に区切られているさまは、天地を覆う新緑の絨毯に茶や金の模様を施しているように思えた。ここがすべてで、あたたかな陽の中に包まれてこの身は朽ちていくのだ。深い靄の道をひた走ろうとも、どこも真暗い宙が広がるばかりで、少年は何を望もうとも欲するものを手にすることはない。しかし、もしも高き天におわすかもしれない大いなる存在が少年を眼に留めたならば、彼は声を聞き自ら進むだろう。大人たちがまだ寝静まっているうちに、少年は目覚めてひとりでに家を抜け出し、旅人が疲れを癒すためにつかの間の休息を求めるように覚束ない足取りで青黒い草原を彷徨う。そして世界の果てには―
―太陽があった! 少年はもはやかつての少年ではなかった。華奢な背中に背丈を優に超える翼をはばたかせ、携えた剣を振るい甘美な香りを漂わせる花々を一太刀で切り裂いた。少年は世界の果てを見たが、そのまた果て、天上の彼方さえ越えた本当の果てに辿り着くだろう。
 
19.太陽 THE SUN
 
世界がまだ無垢だったころ、夜の空は等しく暗かった。幼子の一歩一歩は祝福され、誰もがあるがままでいられる幸福への道すがら、ぼくはひとりでに輝く星を見た。もしもぼくの声が届くのならば聞いてほしい、 〈絶対者〉 よ、すべてを見通すあなたの眼は宇宙のどんな事象も取りこぼすことがないというのに、そのあまりにも強大なまなざしをたった一人の少年に注ぎ続けるというのか! 彼の心は砕かれ、生きながら死にかけており、あなたの見せたいもの以外の何ものも彼の目に留まることはない。しかし、少年は消えかけの意志を奮い立たせる。自分はいつか、どこか遠い世界に行けるだろうと信じている。ぼくは少年の手を取り、 〈絶対者〉 のもとで踊り明かそう。あなたが顔を顰めようと構うものか。決してこの手を離すものか! ぼくたちは薔薇を枯らさぬよう、踊る、踊る、ふたりで、ひとりで。炎は未だ絶えることはないのだから。
 
15.悪魔 THE DEVIL
 
わたしがなぜ 〈君臨する者〉 になったのかということについて、わたしが誰にも語ることのなかった君とのつかの間のひとときを思い出さずにはいられない。わたしがまだほんの少年で、世界の果てのそのまた果て、本当の果てを目指して旅を始めたころ、君はいつでもわたしの傍にいてくれた。どこから来たのか、どこで生まれたのか、誰と住んでいたのか、何も知らない君がただ一つ分かっていたのは、君が 〈旅する民〉 であるということだけだった。わたしたちは幾夜も語り合ったものだ、互いの夢の話を。星空の下でわたしたちが焼べた火は、天上の星々に居場所を知らせる旗印だった。君はわたしの言うことを信じてくれた。今まで誰も見向きもしなかった、わたしの真実を。わたしは故郷で 〈太陽〉 を見てから、世界の果てのそのまた果て、天上の彼方さえ越えた本当の果てを目指していることを。そのために幼いわたしはあらゆるものをこの目で見ようとしていたことを。そして君は満足そうに微笑んでこう言った。 「ぼくの安らぎは、きみの意志のなかにある」 。今だけは君の名前を呼ぶことを許しておくれ、 〈ソフィア〉 、幼きわたしの見えざる友よ。木陰に君の骨が横たわっているのを見つけ、異形は目覚めた。威風は真実を照らすだろう。破壊し、新たに形づくることで、わたしの夢に辿り着けるのならば、このあまりに永い旅路は何も苦ではないよ。
 
18.月 THE MOON
 
たとえ目を閉じたとしても、昼間に無理矢理幕を覆って見えなくしているだけで、本当のところは目を閉じようと閉じてなかろうと何も変わらない、常に自分自身を見つめざるを得ないということにおまえはとうに気が付いている。目を閉じても見えないことにはならない。瞼を閉じて同じものを色彩のある景色から光と闇の景色に変えただけでしかない。故におれはひとつの考えに望みを託した。すなわちおまえがおまえである限り、おれはおまえになれるのではないかと。おまえだけの場所、おまえが憩うただひとりのためだけの静寂。おまえが昼間を最も照らすものであれば、おれは夜に広がる星々の王となろう。おまえの光が地上のどこにでも届くようにあまねく喜びを齎そう。見よ、地上は今も多くの悲しみや惑い、欺瞞、憎しみで溢れようとしている。しかし、おまえは全てを知ったうえで人を愛したのだろう? おまえは自由だった。いくつもの村や街を訪れ、異なる人々と出会った。時に助けられ、時に欺かれ、罵られた。それでもおまえの光が失われなかったのは、人の心は未だ旅の霧を彷徨っていることを知っていたからだ。おまえの思うままに駆け抜ければいい、おまえは完璧なのだから。我らがかつて見上げることしかできなかったあの場所に遂に到達したことを遍く知らしめるがいい、ひとりきりの凱旋に祝福を! 何も心配することはない、おまえの眩い朝を仰ぎながら、おれはおれ自身の役目のため真っ逆さまに落ちていこう。
 
7.戦車 THE CHARIOT
 
晴れ渡る初夏の太陽も、夜の生暖かい微風も、明日一日を過ごすつかの間の休息であるならば、ただ二人の少年たちを除いては、それだけに値するのだろう。背中のあたり、翼が生えていたはずの場所を撫でてみても、傷口は綺麗さっぱり消え去ってしまった。少年たちは真夜中へ手を伸ばす。いつまでも、いつまでも、忘れ去られた約束が果たされる日を希望しながら。しかし彼らを憐れむことはない。二人の願いは小さな火の欠片となり宵闇に浮かんでいたのを、星々は見落としたりはしない。星の光が二人のもとへ降りるとき、火の欠片はたちまち燃え盛るだろう。それは証だ。少年たちの世界への渇望だ。与えられようとも決して満たされない、自分がここに 〈ある〉 ことの証だ! 不動の番人は少年たちの生きる世界と、二人の彼方とをつなぐ目印となり見守っている。そしていつか彼らは結末を思い出すのだ、 「あの調停者を道しるべに、我らはいつか飛び立つ日が来る」 と。
 
14.節制 TEMPERANCE
 
さて、ぼくが南ですべてを垣間見たあの日からこれまで重ねてきた遍歴の旅で、一体全体何を慰めとしてきたかについてお伝えするべく、ここにできる限り記しておこうと思う。まず、ぼくはほんの子供だった。あるものはそのままあるものとして受け入れられた。自分の周囲数百メートルがぼくの世界だった。その範囲内であればぼくはいつでも安全だった。しかし、既に何度かお話しした、あの 〈太陽〉 によって、ぼくの生ぬるい風の吹く閉じられた世界は不毛の地と化してしまったのだ! 空は一面の青で潤っているというのに、踏みしめる土は乾いていて、ひび割れていた。雲は流れておらず、ぼくは大地に座礁した。どこを見渡しても真っ暗だったが、ただ一つ 〈太陽〉 だけは煌々と輝いていたので、 〈太陽〉 を目印とした。でも、世界はきみのものだった。きみは高いところから辺りを見渡していた。そして何もかもを思うままに、原初の火に焼べたのだ! 君が綯い交ぜにする宇宙にぼくがいるのかどうかは気にすることではない。苦しみも悲しみも全て窯に投げ入れてしまえば、喜びは満ち溢れるだろうか? もしそうであるのなら、ぼくは今度こそ気儘なきみの手を取って、口づけを贈るとぼく自身に誓ったのだ。
 
20.最後の審判 THE LAST JUDGMENT
 
生きとし生けるものはかれ自身の命令に従い休息を取るため巣なり家なりに戻って身を横たえる 〈夜〉 と呼ばれる時の中で、こうしてきみと二人で火を囲んでいるのは、まるで昼間に逢うだけでは足りないので自分たちだけのささやかな 〈昼〉 を作り出そうとする、いわば抵抗のようなものに思えてくる。日が昇っていて明るいうちは分からないものだ、日々の仕事に追われ片付けることで精一杯なのだから。しかし今は、きみにもおれにも本来の願いを遮られてしまうようなものはないから、この場でゆっくり考えてみても良いだろう、せめて、時の進まない今だけは。おれたちは随分長い間を共に過ごしたから、つい話しそびれてしまったが―
―単刀直入に聞こう、おれたちは共通の目的を持っているね? 自分が何のために、また何を思って駆け抜けてきたのか、それはただおれたちの自由のためだけなのではないだろうか? きみはやりたい放題やっているようで、実のところ、きみは心の根底に、幾重もの盤石な地層を持っている。生は死の猶予、たった一世紀に満たない 〈自由時間〉 だ。きみの星のために生きるがいい、きみの真実へひた走るがいい! きみの 〈善き心〉 に従って、きみはおれをここまで導いてくれたのだと信じたい。でも、きみは 〈はじまりの一人〉 であるおれの道を照らす光であるというのに、その身を薪とするのだな。おれはきみに何ができるだろうか? きみが灯してくれた火を、何ものよりも真赤に、見るものすべてがその美しさのために息を呑むようにしよう。きみに一番に見てもらえないだろうか? ほら――夜明けだ。
 
6.恋人 THE LOVERS
 
「聞いてくれ、ぼくの心にずっと澱んでいるこの苦しみを。ぼくは時々思わずにはいられないんだ、走っても走っても、ぼくの脚では無理があるのではないかと。おとなはみんなぼくより頑丈で強いから、ぼくより遠くに行けるし、疲れることはないというのに。おとなはぼくより大きいから、ずっと遠くを見ることができるといのに、ぼくときたら、あの丘の向こうに何があるのかすらさっぱり分からないんだ」
 
「おれたちはどうして、永遠に等しい時間をを一つの星の中で過ごしていかなければならないんだろうな! みんな高いところに行きたがるものだ、高いものを造って、空を飛んだような気になっていたいんだ。それは呪いだ。おれたちは魂に楔を打ち付けられたんだ。本当は世界のどこよりも高い場所がいつでもそばにあるというのに、誰も気付きやしないんだ! 見上げるものはみな地続きにしか存在できなくて、否応なしにおれたちのからだを傷つける……」
 
「ときどき想像するんだ、ぼくは少し高い丘の上に立っていて、辺りを見渡せる場所にいる。そこで風の音に耳を澄ませると、どこからか声のない声が聞こえてくるので、それが聞こえた方に目を凝らしてみる。すると遠くの山はたちまち崩れ落ち、森は燃えて草原に飛び火し燃え広がる。みんなぼくの思う通りだ。でも、次の瞬間にはいつもの平和な緑が広がっている……」
 
「おれたちの腕はあまりにもか細いから、去りゆく者の手を引き戻すこともままならない。どれだけ地面を強く蹴っても、せいぜい土埃が舞う程度だ。おれたちは何も為せないのかもしれない、でも、せめて誰かにとって忘れられないものでありたい。おれはおまえの心でありたい。どうかおれを見てくれ、お前のからだにがんじがらめに巻き付いた鎖を砕かせてくれ!」
 
「きみだけがぼくの中にいるのなら、一体ぼくはどこへ行けばいいのだろう! どうかそんなことを言わないでくれ。ぼくもきみであることを許してくれ。さあ、こんな鎖はさっさと砕いて、ぼくたちは二人のためだけに祈ろう」
 
「おれはおまえになり、おまえはおれになる、その言葉をどれだけ待ちわびていたことか! おれたちは互いの星となろう。おれはおまえを見上げ、おまえはおれに憧れるだろう。そして、いつの日か誰も届くことのなかった場所に行こう。何度でも誓おう、おれはいつでもおまえの前に立ち、おまえがいつもおれに心を向けてくれるように、死に瀕した天使の断末魔の如く叫び続けていよう」
 
8.剛勇 FORTITUDE
 
涼しげな秋の風は肌を刺し、新しい命の芽吹く音がする。世界は明るかった、夜を超えた朝の光を、すべての人々があまねく享受するべきであるものだと信じて疑わなかった。 「そうではない、まだそのときではない」 。いずれは正しくなれる、そう信じることで過去を忘れ、痛みを忘れ、前へ歩を進めさせようとする烏滸がましさ。今でも明瞭に思い出す、ゴム素材のゆりかごに微睡み、絶え間のないせせらぎを聞き未知に夢見ていたことを。果たしていつからだっただろうか、わたしの 〈太陽〉 が何者かによって陰らされていたのは。しかし、とめどなく溢れ出る渇望はわたしの心臓を満たし、わたしの血は沸騰し、収斂し、爆発する。どうしようもなく腹は減り、喉は乾く。走りたい、今すぐに駆け出したい、今見えるものとこれから見るであろうものを何一つ忘れることのないよう目に焼き付けたい。手を伸ばしていたい、掴んでくれないのなら、わたしがその手を離さない。ほんの気紛れだったとしても、一時だけ寄せられたきみの身体にしたたかな体幹を感じたのは、わたしがきみに魂を見出したからに他ならない。わたしは遠き夕暮れの後の深い青だ。わたしはその身を以て世界に朝を齎そう。わたしは自分にひとつの責務を課した。自分が 〈果て〉 に辿り着くそのときまで手を掲げ続ける、という責務だ。何も見失わぬように、天に手を伸ばさずにはいられないようにして、彼方への淡い希望をわたしだけの星と呼んでこの盲目に植え付けたのだ。人はわたしを蛮勇と笑うだろうか? 愚かだと嘲るか?「そういうものだ」 と賢者ぶって諭すか?〈運命の相手〉 がいてたまるものか! 泡沫の夢において暇潰しをしているにすぎないというのに、ほんの気慰みに世界を創造できると思い込むその傲慢さたるや! わたしだけは忘れない、苦しみの内にのたうちまわり、わたしだけの痛みに昼夜呻いていよう。わたしはわたしの焦がれたものひとつのために殉じよう。ああ、しかし―
―未だ空はこんなにも遠い。
 
3.女帝 THE EMPRESS
 
息を吸う。吐く。吸う。吐く。二人乗りの細胞は血液の流れに任せて流れる。無音の箱舟。心臓の規則的な鼓動とモーターの駆動に大した差はない。自動開閉の棺桶、弔う者のない水葬。おれたちは鉄の脊髄を昇る。そのまま最上階へ。かつて見上げることしかできなかった場所へ。巨大な身体は進歩に浸食された。血管は電子回路に置き換えられ、末梢神経は電線に成り代わった。呻き、苦しみ、逞しい脚で飛び立とうとしたが、見知らぬ人々による際限のない欲望がかれを地に繋ぎとめてしまった。そしてかれは最期の力を振り絞り、せめてものあがきに、自分が抗い続けていることを知らしめるため、恐ろしく巨大な翼を広げ、骨になった。
 
そこは未完成、あるいは未修復の秘密基地。かれの頭、身体の最も高い場所、おれたちはさしずめ目だろうか。かつてここに降り立った 〈救世主〉 は、彼が現れた真夜中の暗闇よりも暗かった。おれたちはこの神秘の領域に活路を見出す。声に出す必要はない、そもそもおれたちの声は届かない。星に語りかける無言の祈りが言葉であり、聞き届けられたとき、夜空に十の星が瞬く。おれたちは星空と自分たちの間に見えない道があるのを感じる。見えないが、見えている。 〈ある〉 ことが確かだということが分かる。その隔たりは 〈果て〉 へと続く道の 〈扉〉 である。 〈扉〉 はひときわ大きな祭壇の上に立っている。砂埃舞う原初の地に、今まで二人が空に向かって照らし続けたあの焚火がこの場に呼び寄せられ、おれたちが到着するのを待っている。願いは初めからこんなにも近くにあっただなんて!〈案内人〉 は、おれたちに 「自らの思うままに歩め」 と言う。自らの声に耳を傾けること、人間身体の一切から切り離された 〈全〉 の声を聴けと言う。おれたちはその通りにした。自分の声に従って、己の心の赴くままに生きた。おまえは 〈この世界よりも高い場所〉 を目指した。おれは 〈彗星のごとく駆ける者〉 の火を絶やさぬようにした。 〈案内人〉 は 「愛せよ」 と言う。その無垢な瞳が、自分自身は力を得るものではなく、力そのものなのだということに気づかせてくれるはずだ。
 
ここでもう一度、誓いの儀式を始めよう。 〈案内人〉 はすべてのおれたちを待っている。過去も、今このときも、この先も。今までのおれたちも、同じようにしただろう。だから、何も思い出せない。同じ世界を巡ることはない。いつか目を開けた誰かは、この旅の全てを乗り越えた全く新しい世界に立つ。 〈ノウン〉 は、自分がおれたちであったことの一切を忘れるだろう。しかし、おれたちの旅路そのものや、道の途中に置いた灯火が彼を導くだろう。彼には見るもの全てが美しく映る。おれたちと同じように、彼も彼自身の〈星〉を目指し、またこの場所に辿り着くのだ。
 
17.星 THE STAR
 
常に駆け抜けずにはいられなかった。彼はきっと、誰よりも自由だった。奔放、無邪気に駆け回り、縛めを一時の間のみ緩めることを許された幼子のよう。羨望の的になるのも無理はないだろう、本当の子供のようだったから。影が彼を形作った。無目的で、無軌道で、非回顧の偶像……皆がそれを良しとした。先頭を行く者はいつでも自由でなければならなかった。彼は選ばれたのだ。失われた自由の亡霊を宿し、観衆は夢に焦がれる。選ばなかった世界への、少しばかりの後悔を胸に抱きながら、運命に従って平然に生き、来るべき明日のために永遠の今日を過ごす。そしてふと思い出したようにこうつぶやくのだ――「私もこんなときがあったものだ!」
 
彼は走り続ける。夜の暗闇を突き進む。定められた通りに、定まらずに。無垢な少年は今もなお未来のその先へ向かう。 「そのままでいい」 と言う。脇目も振らずに走り続ける。過ぎ去ったものを懐かしみはしても、振り返って拾い直すことはできない。いつしか全てが過去になり、こう問いかけるのだ。 「最初の一人は何を心の拠り所とすれば良いのだろう?」
 
遊ぶように大地を飛び、駆けていながら、枷を恐れて逃げ惑っているようだ。自身を突き動かすただ一つの願い、すなわち、彼の夢が見えるところを求めるということ。彼を妨げるものから、ほとんど闇雲に、必死に走って逃げて、少しでも希望の光の差す場所をひたすら行く。辿り着いた先の空は雲一つなく、地平線は白みがかっているが真っ暗で、清浄で、静寂のうちに在ることを知る。そこからすべてを見つめる彼の眼はひとりでに輝くのだ。
 
5.教皇 THE HIEROPHANT
 
〈今〉 を生きることができるのは 〈今〉 に物語を持っているからであるとするのならば、すべての 〈今〉 に見放された者はただ消滅を待つだけなのだろうか? 幼子は常に 〈今〉 あるべき存在であるが故に 〈未来〉 を見ることができない。彼らにとっては全てが新しいので、彼ら自身が 〈未来〉 なのだ。しかし、やがて彼は気づく――自分は 〈今〉 かつ 〈未来〉 から見放されたのだと。蛾のように夜の中を光を求めて当所もなく彷徨い、光が消えると、自分の中にあった微かな光の記憶を頼りに夜の海を泳ぎ続ける。しかし羽を休める時は来ない。彼は 〈過去〉 に舵を切った。 〈物語〉 は彼が毎夜やって来るのを静かに待っている。無に囲まれた世界の中、たったひとつの輝く灯である。消えかけの蝋燭は彼の境界を揺るがす。 〈物語〉 だけはただそこに存在し、それ自体に意志はない。どれもが語られたものであり、あるのは人の思惑と無意識の願いだ。故にその 〈物語〉 は語りかける。人が聞き、話す言葉など不要、 〈物語〉 は人間の言葉を通して現れるが、人と同じではないのだ。では、どうすれば良いのか? ただ、願うこと、切望することだ。身体を、心を、苦しみを、痛みを、すべて地上のうちに置いたのならば、 〈物語〉 を覆っていた言語の霧が晴れて、憧れに辿り着くことができるだろう。来るべき時が来るまで、彼は叫ぶ。 「我が星はいずこにありや?」
 
10.運命の輪 THE WHEEL OF FORTUNE
 
一つ、二つ、三つ、四、五、六と、確かめるように指でなぞる。ぼんやりと前を見るとロッカーが並んでいる。等間隔に区切られたステンレスの細胞は、満たされては空き、また満たされる。大きく息を吸い、吐く。空気が体中を巡り、体の表面を覆っていた苔むした鎧が剥がれ落ちて、わたしはわたしの底から燃え盛るものがやってくるのを静かに待つ。それは運命と呼ばれるらしい。ただ待つことしかできない不可抗力が示す道の通りに、わたしは歩まなければならないらしい。わたしは祈る。目を伏せ、言葉にならない音声だけの短い願いを頭の中で囁く。ゆっくりと目を開くと、わたしは大切な宝物を片手にきつく握りしめている。わたしは諦めたような目つきで、これから進むべき道の方に顔を向ける。わたしたちはこれから三三五七回目の対決を迎えようとしている。わたしは、これまでの三三五六回も、六つの宝物を一つずつ指でなぞり、目の前のロッカーをぼんやりと見つめて、大きく深呼吸し、祈りを捧げ、目を開き、向かう先の方へ顔を向けた。それは寸分の狂いもなく行われた。一つ一つの動作は、一秒も早すぎることなく、また一秒も遅れることがなかった。祈りの言葉は正確な抑揚と間をもって捧げられた。わたしはおもむろに立ち上がり、光の差す通路を一歩一歩進む。俄かに視界が開け、芝のグラウンドが辺り一面に広がる。わたしはこの光景を三三五六回見た。君はこれまでの三三五六回と同じように不敵に笑っている。空を割らんとするばかりの歓声を上げる一万の観衆も、まるで初めて見た光景であるかのようにわたしたちに対して感嘆の声を上げ熱狂を享受するが、事実彼らは世界が始まった瞬間から感嘆する定めであったことは、彼らのうちの誰も知り得ぬことである。わたしたちが一体いつからここにいるのか、君はどう考える? 君はまるで全てを知っているかのように笑う。それは諦めか? 自分がこうすることを定められていると知ってしまったから笑っているのか? でも――わたしにはそう見えない。もし本当に君が諦めているのなら、君はわたしを見ていないはずだから。今日までの三三五七回、このグラウンドで向かい合ったとき、君はいつも射貫くように――あるいは何か訴えかけるように――わたしを真正面から見つめた。わたしたちはこれからもここに立ち続けるだろう。誰もがわたしたちのことを忘れてしまっても、わたしたちは続くだろう。先攻、後攻、何度でも、はじまり、おわり、魂は聖域を巡る。わたしは微かな望みを抱かずにはいられない。四〇二五回目の対決で、わたしたちの元に空から何かがやって来るだろうということを。
 
9.隠者 THE HERMIT
 
ずっと、待っていた。その時が来るまで、何年も待ち続けた。子供にとって、数年の時間は一生分に等しいほど長かった。少しでも気を緩めたのなら、せっかく待ち望んだ 〈時〉 を逃してしまうと思うと、これまでの努力が水の泡になりそうだった。だから今日一日を終えるのに二四時間もの時間を過ごさなければならないことが少年にとって堪らなく苦痛に感じられ、あまりに気を張りすぎて夜も満足に眠れなかったこともあった。そのようなときは、気力と体力が尽きた瞬間こそが、彼の休むべき頃合いであった。朝目覚めると、彼は 〈時〉 を逃してはいまいかと不安に苛まれながら、表向きは何事もなかったかのように大人たちに朝の挨拶を交わすのだった。現実、少年は自分を愛してくれる家族と多くの友人に恵まれた。少年の喜びは皆にとっての喜びで、悩みや悲しみもまた皆のものだった。しかし、少年の待つ 〈時〉 だけは彼自身のものだった。それは子供の幻想だと思えばかわいらしいものだったかもしれない。厳しい大人であれば、彼を冷ややかな目で見たかもしれない。少年自身はというと、幻想であることを拒んだのだ。賢い彼は、 「これはいつか消えてしまうものだ」 と自ずから気が付いた。一体自分の中の、どれだけの思い出が、消えることを望んでいたというのか? 答えは否。ただ生きただけで、一日を始め、終わらせただけで――それだけなのに、本当に無くなってほしくないものに限って、いとも容易く消え失せてしまうだなんて! 少年は一つ願ったにすぎない。自分がこれから失ってしまうかもしれないものが、どんなに小さなものであろうとも、決して取り零すことがないようにと。だから彼は待ったのだ。どこかの誰かに向かって助けを求める小さな産声を。確かに聞こえたのだ! 遠い場所から少年を呼ぶきみの声が! 少年はもう迷うことはない。今に彼は立ち上がり、きみの元へ向かい、辿り着いたら手を差し伸べるだろう。もし星の輝く夜にきみへ手を伸ばす男がいたら、躊躇わずにその手を取るがいい。きみは、本当に泣くべき時を知るだろう。きみの中で燻る炎は、ある真夜中に最も輝いて、わたしたちを導くだろう。
 
21.宇宙 UNIVERSE
 
駆ける。どこまでも駆ける。体力の続く限り走る。一歩一歩踏み出す限り。足は軽やかに土を蹴り草を撫でる。巣から伸びる蟻の行進、獲物を追い立てる狼の群れ、踏み均された天然の歩道、魚は流れに任せて川を下る。遥か北の方に、道は続く、誰も迷わないように道のりはレンガとアスファルトで舗装され、街と町の間を地図でなぞれば全てが直線で結ばれる。始まりはただそうであった場所、この先の長い生に於いて、その場所はわたしを呪いのように縛り付ける。故に私は置いてきたのだ、あったかもしれない退屈な未来を! どこも地は緑に覆われ、ここは虹色の楽園である、しかしわたしは人間だ。何て美しいのだろう、かつて思い描いた理想の王国が眼前に広がっている! 彼は何もかもを見下ろしている。人間、空、平原、山々、足音、罵声、血、骨、幸福、奇跡、地球儀。王は国中へ余す処なく称えるべき名を知らしめる。閉じられた墓場に栄え、かつて偽物の王は我が物顔で一番星に名乗りを上げた。しかし、未だ混沌として冷めやらぬ、わたしたちが心と呼ぶものが内に渦巻く限り、わたしは空を見上げるだろう。世界は美しいが、彼方の星ほど美しいものはない。何もかも忘れて、再び戻るのだ、わたしに灯った最初の炬火にあこがれて。
 
2.女教皇 THE HIGH PRIESTESS
 
活発な空の瞳が微睡み、瞼が閉じて最後の光彩が夢へ向かおうとしているところ、昼間の賑わいもまた店じまいの時間なのだ、 〈本当の自分〉 に戻るべく外付き合いの友人をさっさと頭から追い払い、自分と愛する者しか知ることのない聖域へと歩を早める様は、そこがまるで自分にとってはそこしかないのだとでも言うように、蜘蛛が部屋の隅に張った貧弱な巣だ。一日、また一日と、穏やかに過ぎる日々をよそに、わたしの心は逸り、一時の停止も休息も許さなかった。見えるものがあったからそこに行く、たったそれだけのことがどれほど難しいのか、遠くの山々は聳然として虫一匹ごとき気に留める存在ではないし、存在ですらない。 「星を見たのなら祈りなさい。あなたの願いを託しなさい。必ずや星はあなたの声を聞き届けてくれるから」。 母の言葉が蘇る。及ばぬ世界を思って部屋の窓から一番星を眺めていたとき、自分が跪いた場所は狭すぎたのではないか? 窓を開けて、光の方へ祈る、一心不乱に。かつて誰かがそうであったように、真っ暗で、冷たく堅い石の壁に囲まれて。光はわたしを惑わせる、手を伸ばしても煙は宙に溶けてゆく、置いてけぼりの燃えかすだ。しかし、遠くの方で雷が鳴っているのが見える。ならば今一度、分厚い雲も青空も超えてみせよう! 再び巡り合う日を切望して! わたしは秘密の場所で最後の星を見送り、太陽は頭を擡げる。朝の光はわたしをどこにも連れていきはしない、ただ、真正面から向かうだけだ。
 
13.死神 DEATH
 
道があろうとなかろうと 思うままに行けば
そこはいつでも理想の国
月明りだけが頼りの夜の国
何でもできる、なぜならわたしがいるのだから
わたしがここにいる限り裏切られることはあり得ないのだから
今日は明日のために眠ろう
しかしどうしてこんなにも空しいのだ
 
未だ迷いの中に微睡んでいるのか?
心地良い秋の涼しい風はきみを閉じ込める
いつの間にか太陽すらも居眠りして
わたしを目に留めることなんてありはしない
わたしは決まってこう言うのだ、
「ああ、今日もやってしまった!」
このままではきみは来ないことは分かっているのに
わたしの頭にはいつも靄がかかっている
これから始まるのだから
今はもう少しこのままで
 
そこは 〈終わり〉 ではない
わたしは再び 〈海〉 を携えてやってくる
きみは手に入れた全てのものを失う
それはわたしとて同じことだ
〈海〉 はやがて陸を吞み込んで
誰も在りし日の栄華を思い出さなくなる
しかし、何もなくなったとしても
わたしは 「かつてあった」 と言うしかないのだ
かつてあったものを思い出せる限り
わたしは帆を進めて行けるのだ
幾百もの亡霊たちがわたしを見つめている
わたしも彼らと同じなのだ
あるかも分からない光に向かって
祈りを捧げる盲目な囚人だ
 
1.魔術師 THE MAGICIAN
 
わたしたちの運命は気紛れだ
気紛れに未来は暗くなり、また明るく輝く
それは嵐の予兆だ
引き寄せ、また離れ離れにされる
わたしはきみに 〈謎〉 を仕掛けよう
きみにしか解くことのできない 〈謎〉 を
それはあまりにも遠い出来事であるから
きみは忘れてしまったかもしれない
しかし、わたしは忘れない かつて自惚れのために
求めてやまなかったものを失ったことを
きみは既にわたしの過ちを許していて
振り返ることはないのかもしれない
重苦しい空気はわたしの足を鈍らせる
わたしはどうすればよかったのか?
倒錯するハリエニシダのように
わたしは遠き日の思い出を胸に秘めたままでいる
 
わたしたちは声高に宣誓する
「我らは今ここに!」
止まった時計は再び動き出し永遠を刻む
規則正しく円を描く星は見えない絃に引かれて
灯台は必ずや我らを照らすだろう
耳を澄ましてよく聞いてみるといい
我らの産声を!
それはかつての死
わたしたちの最期の 〈言葉〉 だ
おめでとう、我らはまだ、歩んで行ける!
わたしたちの願いはとうの昔に叶っていたのだ
どうか、果てなき空を、海を
泳ぐように生き、死ぬのだろう、何度も、何度も
忘れては思い出し また忘れるのだ
たとえわたしが全て憶えていたとしても
わたしたちはひとつの 〈言葉〉 に呼ばれたとき
相見えるのだ、それまでは ただ憧れていよう
在れ果てたこの地に 再び花開くのを
 
4.皇帝 THE EMPEROR
 
何度も重なる 稲妻のような光景
〈彼〉 と同じ姿の少年はかつての亡霊
忘れていたはずの 最初の思い出
あれは自分だったのか
それともよく似た誰かなのか?
何も語らなかった 繰り返す夢
無力のために終わらせることのできなかった
日記の続き
星辰のパノラマは常に 〈彼〉 に開かれており
望遠鏡は必要ない
〈彼〉 はただ夜明けの光のみに導かれた
〈彼〉 はいつも憶い出そうとしていた
ほんの一瞬目にしただけの暁光を忘れまいとして!
燃えるような道はどこまでも開かれ
命すら超える 向こう側
 
確かな足取りで玉座に向かう
失った世界は再び 〈彼〉 の手に
初めから取り戻す
次の 〈ノウン〉 への一瞬
戦士たちは皆 〈彼〉 を慕う
復活の合図はここに
「王よ!」 もう二度と覆されることのない喜びよ!
未来を考えてみたまえ、人よ、
未来に生きる愛すべき人よ!
それは希望だ 病み疲れてしまった者への
たった一つの治療法だ
だから我らは星に焦がれるのだ
美しいものを追い求め続けるのだ!
いつか笑っていたあの子供は
本当はずっと泣いてばかりだった
遠く、深く、暗いどこかで蹲っていたあの子供は
今は安心して眠っているだろう
だから 〈彼〉 は行くのだ
すべての思い出を背にして世を統べるのだ
〈彼〉 を動かすのはひとつの贈り物
そしてただひとりの人間の ちっぽけな願い事
 
何も映さなくなった眼は
土に埋もれた剣を見た
奪われた王国
今や無名の戦士となったかつての王
五十年の栄光と 千年前の手紙
鎖はまだこの首を絞め殺してはくれない
せめて消えないものを残してみせよう
続く道は明るい
漸く果たされる約束
他の誰が忘れても
わたしはあなたを憶えている
 
0.愚者 THE FOOLISH MAN
 
百万の言葉は一語より出で
一語は火より目覚める
影は片時も離れることはないが
朝の訪れるたびに霧散する
この光景はすでに見届けたはずだ
天に向かい手を伸ばす
鋭く切り裂く鳴き声が聞こえる
腐敗し、還り、芽吹く
わたしが何者なのか分からないのがひどく恐ろしい
すべて、あるいはすべてのはじまりであるが故に
天に向かい手を伸ばすのは
わたしであり、わたしではない
どこにも届かず、夢見たまま果てた
ひび割れた砂時計
追い詰められた者と 追い詰め、のし上がった無法者
語り継がれてきた物語と 原初の伝説
記録されることによって物語は残る
名も無き人々によって 偶然に、細々と
分岐し、ときに途絶え、生き残る
人々は待ち望んでいる
呼ぶべき名に相応しい者を
かつてわたしは、
〈誰か〉 と笑い合ってはいなかっただろうか?
わたしはすべて、あるいはすべてのはじまり
〈誰か〉 の記憶であるのならば
きみはここにいたはずだ
わたしたちは、出会っていたはずなのだ!
太陽は昇り わたしは秘密の歌を口ずさむ
「ララララ ラララ ララ ララ……」
それは言葉が言葉である前の衝動だ
歌が 〈誰か〉 とわたしを引き合わせる
聴くものはどこにもいないが
きみはどこかにいるのだろう?
歌は終わり、また初めから歌う
世界は始まり、終わり、再び始まる
どこへでも行こう 名も知らぬきみに会うために
もし叶うのならば
もう一度 わたしの名を呼んでくれないか  
 
 
〈終〉


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【Twitter(X)】KBDN魔法パロアンソロジー

2024年10月14日月曜日

『言解きの魔法使い』6巻 感想

消える記憶。死にかけの記録。過去の行く末を見守る。最後の一冊、開いたページはいかにして閉じられるべきか。記憶の中でしか存在できない懐かしい名前は、息の切れるときを待つばかり。
かつての人が、今ここにいる。形だけの夢、帰る場所もないままに、名残は独り歩く。もはや誰も呼ぶことのなくなった名前、誰でもなくなった「私」というものは、呼ばれることによって初めて「私」という存在としての意味を持つ。死んだことにされた人間、「祝われなかったもの達」……誰もあなたを見ようとしなかったとしても、わたしはあなたを知っている、と言えるのなら。誰かのために在りたいと、それが知らない誰かにせよ、あるいは特定の誰かにせよ、自分が何者かにとって世界の一部であるということが、生きる資格であるかのよう。
 
ようやく見つけた一粒の砂粒を拾い上げることすらも、人の世は許さないのか? どうすれば首を縦に振ったのか? おそらくなかったのだ。認められないということに、あまりに都合が良かったから。ただそれだけのことだったと知ったとき、一体何が見えると言うのだろうか? 選ぶことすら奪われて、夢とも現ともつかぬ場所をさまよいながら、自分はこうしたかったはずなのだと呟いて、なおも足を引きずっている。腐った水が大地に深く染み込み、わずかに芽吹いた木はみな枯れてしまった。いつしか、あの地はとても住める場所ではないと、噂だけが立ちのぼる。
今ここにいるひとつの現実世界のみが自己の内に存在する。言葉によって世界が形作られる遥か以前にあった、ただのわたしと、ただのあなたが、言葉と共に真夜中の海を越えられると信じても、言葉は言葉、文字は文字、それ自体に、誰も彼もいなかった。では、何を見ようとしていたのか? 声を持たない死者たちのほかに、今を語る者はいない。それなら、ひとりで語るしかない。誰かのために……「私」に残った最後の灯は、暗がりのなかに白くぼやけて映った。

これは手に取った一冊の本、ひとつの物語。自分に火を灯した物語は、自ら消すものでも、消されるものでもない。心の奥深くに打ち付けられた楔は、外れることはない。だたし、それは傷ではないし、傷となるべきではない。時折痛むことはあるだろうが、そんなときは、目を閉じて、海の彼方から聞こえる自分の名を呼ぶ声に、静かに耳を澄ませてみるといい。
神の気紛れ、狂人の祈り。去り行く人の願いに、せめてもの手向けを。冬の吐息、流れる煙の向こう、世界はやはり変わらない。それでも、呪いのように首を縛り、救いのように繋ぎ留める血の鎖、そこにあなたがいるのなら、語りうる限りの言葉を以て、あなたはわたしと共にあると語ろう。
「あの人の言葉は、いつも僕に力強く響く」。暗闇に隠れた光を、再び世界に呼び戻す声。言葉を解く。意味を、込められた願いを、失われた過去を解放し、取り戻す意志。死者たちの思い出がよみがえるとき。彼は太陽。焼き尽くすものでありながら、地上を照らす炎。ときに畏怖を抱かせ、苛烈で、荘厳で、ときに素朴で、優しく、人の心に映るもの。すべてを知り、すべてを見届け、なお歩み続ける人。
どうか、良き旅を。そしていつか、輝く夜明けの日に。
 
 
作業BGM:
ColdWorld “Walz”
Vvilderness “Sól”

2024年9月23日月曜日

『言解きの魔法使い』5巻 感想

見えたもの、見せられたもの、見たかったもの。はたと気が付けば、すでに時の置き去り。世界を素朴に愛する、おそらくどこにでもいた一人の人間。どうしようもない現実、理不尽に奪われた、当たり前の穏やかなまやかし。「この世には、暴力で現実をどうしようもなく壊していく輩がいる」「俺はそれに抗う術を持たねばならん」。今度こそ自分の世界を守り通すために戦い続ける。その在り方は、同じく奪われた者にひとつの道を示したか。

本を開く。世界の隅に取り残された物語が、来たるべき読み手を待っている。彼方から聞こえる鯨の声は、何もかも奪われた者を歌う。見放され、生き永らえた、言葉以前の思念と言うべきものはなすすべもなく蠢いて、もう誰かを呼ぶことはない。なぜこんなことになってしまったのか、なぜ自分なのか、なぜ呪いしか与えられなかった者たちを思い出すことすら許されないのか?

名とは世界、呪いとしての言葉。人を殺し、ときには自らを殺すもの。輝く世の地平に乱立する鉄の墓標、裏路地の花。秘密は他者にとっては理解不能、摩訶不思議な謎で、拒絶と好奇心を引き起こす。忘れようがないものは、たとえ離れた場所にあろうと、鮮明な記憶として現像される。自分を呼ぶ声の届かない、また、奪われることのない宝物としての場所。
世界との繋がりがあること。 “あなたのおかげで、わたしがいる” と言うこと。そのままでいてくれた方がどんなに良いか。穏やかな風に脆い明日を感じるだけで済むか。過去の幻影が声もなく佇んでいる。幻にすらなれなかった亡霊の悲しみと怨嗟が、今か今かと待ち構えている。

とは世界、旅立ちの贈り物。生きとし生けるものの、最初の荷物。純粋に人を想う、助けられたから助けたいと思う、人を案じる、喜ぶ。そして、 “あなたがいることを知っている” と伝える。では、知られなかったものはどこへ? 「私が祝う」「私が、私が、私が、」……。無数の「祝われなかったもの達」の呼び声が這い上がる。お前は祝われないのだと、深く暗い地底の、さらに深いどこかに引きずり込もうとする。声を得たならば、今一度応えるのみ。 “自分と、自分の認めた者の場所を、これ以上奪うな” 。

「祝われなかったもの達」の因果が、じきに巡ってくる。「私知らないことが多かったの」「知らずにたくさんのひどいことしてたの」。与えられた者と、奪われた者。殺された過去が目を覚ます。優しい微笑みを湛えながら郷愁の念を運んだ、あの暖かな蛍の光は巨大に膨れあがり、舞台の裏側まで映そうとする始末だ! 種明かしは唐突に現れる。しかし、思いもよらなかったと言うべきではない。それはいつでもこちらを見ていたのだ。

すべてを繋ぐ鍵は、過去と、呪いと、真実への意志。道具としての言葉は、その人が生きる世界を “あなたはこのように生きるのだ” と定める。ゆえに、奪われたことにすら気付かず、理不尽に奪われる。汚れた水を清めることはできず、人々は呪詛の酒を呷り続けた。
亡霊であれかしと望まれたもの。「人が見た現実(もの)を理解するのは、最終的に言葉なんだよ」。受け継がれてきた憎しみ、呪いの吹き溜まりに落とされた子。言葉によって殺された、あるいは自ら殺した心。
ところが、彼は完全に死んではいなかった! 彼は「人を救う言葉」を知った。呪いを凌駕するものを知った。わずかに生き残った心を見つけた者がいた。呪いの吹き溜まり、光も音もない世界を照らし、確かに手を取って引っ張り上げた一人がいた! ここまで辿り着くために、どれほどの痛みを、燃え尽きた怒りを、諦めを、茫然と見上げるだけの快晴を、打ちひしがれた憎しみと四肢をもがれた愛を、過ぎ去った夢を、見届けてきたと言うのだろうか! 

“共に来てくれるか?” と言った。歴々と続く強大な呪いの領域に共に踏み込んでくれるか、誰にも語ることのなかった過去の物語を、最後まで見届けてくれるか、と。 “こちらに来い” と、決して口にしなかった。呪いによって満たされた存在が、その行く道を相手の心に任せた。定めるものが、どのように定めるか決断を委ねた。
ついに、鐘の音が、文字を、かつての言葉を、世界を呼び起こす。これは追憶の物語。最後の奪われた者、祝われなかった人のもとへ。思い出、悲しみを聞き、語りかけ、祈るために。
誰にも知られることなく再び生きる、彼ら人よ、せめて、悔いのないように。


作業BGM:Harakiri for the Sky “Time Is a Ghost”

2024年9月20日金曜日

ジャンヌオルタの宝具名

勉強がてら、「ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン」をどうフランス語で書いたらいいのか考えてみたメモ。多分いろいろ違うとは思うが、心からのロマンを込めた。


メモ


「ラ・グロンドメント」
・grondement…「(動物の)うなり声」。「グロンドメント」と発音できない、男性名詞なので没。
・grandement… 「大いに,大きく」「気高く」。「la ラ」の扱いが分からなくなる、「~メント」と発音できないので没。
・≪la grande...≫ が自然?
→できるだけ片仮名の発音に近づけると、≪la grande meute≫ が適当(meute:「猟犬の群れ」)?
※morte(死んだ)も考えたが、la grande の扱いに困ったので没。

「デュ・ヘイン」
①「デュ」
・du, もしくはDieu(神)?
②「ヘイン」
・haine… 「憎しみ」「憎悪」。「デュ」と繋げられないので没。
・rêne… 「手綱」。同上。
→ruiner… 「〔健康など〕を害する」「…を失わせる,台なしにする」。また、「⦅古風⦆〈町・建物など〉を崩壊[壊滅]させる;滅ぼす」。

結論(今のところ)
≪la grande meute/Dieu ruine...≫という感じになるのではないか。「大いなる猟犬の群れ/神は滅ぼす」…うんぬんかんぬん。ただひたすらに格好良さだけを求めた。悔いはない。

参考資料
大賀正喜ほか編. プログレッシブ仏和辞典 第2版. 小学館, 2008. 
倉方秀憲ほか編. プチ・ロワイヤル仏和辞典[第5版]小型版, 2024.

2024年9月16日月曜日

『言解きの魔法使い』4巻 感想

ある日、忽然と消える。驚き、悲しむ暇も与えられずに。不可解な謎を残して、あるいは、謎すら残さずに、忘れ去られてゆく。魔法使いの部屋は、「魔法が解けると水圧がかかったように押し潰される」「まるでそこに何もなかったように」。「世界は魔法使いを嫌ってるから」、彼らを想う時間すらも奪われ、正しき世の濁流に呑み込まれてゆく。
やがて、耳をすませば、彼方から波の音が聞こえる。微かな記憶の残り香が、どこからともなく漂ってくる。懐古、寂寥、無念、痛苦、……。それは偶然の現象に過ぎないのか、あるいは幸運と呼ぶべきものか。深海と宇宙の狭間に取り残される。しかし、どこかでこのように語り掛ける誰かがいるのなら。「あなたが良き夜を迎えることができるように、眠りにつくその時まで、私はあなたと共に在ろう」。
 
人を知り、認め、怒ることは、生きている者同士か、言葉の通じる者同士にしかできない。既に遠く離れてしまったものへは、いかなる言葉も届かない。過去も、過ちも、痛みも、何も消えることはない。その痛みや悲しみを抱えてなお、何を為すか。

「あの人が息をし易いように」
「少しでもあの人が自分自身を好きでいられるように」

できるだけ長く隣にいようと、せめて近くに在ろうと願うことは、単なる傲慢だろうか? その欲は切り捨てられるべきものか? 早々に捨てて、人は去るものだと言い聞かされ、また自らに言い聞かせ、ふと顔を上げてみれば、もはや看取る一人の元へ行けない。かつての矢萩の後悔は、あったかもしれない本当の暗闇への道標だった。二度と戻らぬ航海へ出てしまったのならば、一体何を他に語ることがあるというのか?
 
「理解して条件を満たすこと」によって、文字を回収する。言葉、もしくは、文字自体が意味を持つ場合、言葉を構成する文字の単位まで分解し、意味を捉え、自らの中で言葉を再構成し、実際に使う。魔女の能力によって、モノは人が理解できる最小の単位になる。それは最も純粋で、ときには残酷にもなり得る。どのように理解し使うかは、使用する側の意志に委ねられる。次に繋げるために、今を理解し、意志の導く方へ進む。さて、魔女がナツメや矢萩に出会うよりも遥か昔に、彼女を案ずる何者かはいたのだろうか?
 
想いと言葉が、蛍の光とともに、空に昇り、漂い、消える。昔日のあたたかな思い出を、
抱えて、忘れないように、空に還す。
「壊して作り直してしまう」。「僕は壊しきることと、壊さないようにすることしか知らない」。誰か、どうか誰かと、ただ一人の名すら忘れて、真っ暗になった世界、雲間の向こう、無に浮かぶ灯火に、叫ぶように願った日々。
すべてを燃やし、殺し尽くし、呪い、暴く者であること。ナツメは高らかに宣言するだろう。これが自分だ、やはりこれが「僕」なのだ! いつか全てが解ける日まで、ゼロに戻り再び始まる日まで、せめて悔いのないように生きるのだと!
 
戦うならば、証明し続けるしかない。晴れ渡る空の下、嘆きの地で。もはや想われることすらなくなった死者たちよ。あまりに軽く塵と消えた者たちよ。あまりに重く流離人の眼に焼き付いた現よ。
 

作業BGM:
Alcest “Kodama”
SYU(from GALNERYUS) “VORVADOS”
VS寳田八朔) 

2024年8月12日月曜日

『言解きの魔法使い』3巻 感想

漂泊する言葉、記憶の座礁。拾い集めた砂の万華鏡は、気の遠くなるほどの時を経てもなお陽光を受けて輝く。煙草の煙にぽつりぽつりと浮かぶ言葉は、空に昇り、雲に溶け、やがて雨が降る。空気と大地は過去によってもたらされた水に満たされ、生きるものを潤す。
生者は願い、祈り、過ち、悔悟によって生かされる。その集積が、大地を流れ、海に収束する。生きるべくただ一つを殺した者と、生かされた者。何度でも生きるために、あるいはもう一度生きるために、朽ちて骨となりゆくばかりの暗い海の底から、身体を得て、途方もない人の世へ。

大閲覧室の扉を経た先には、異界の墓場が広がっていた。扉は人の世と原初の力とを繋ぐ。誰も知らないことを知りたかったのか。最も美しいものを我がものとしたかったのか。そこには、無数の本によって形作られた巨大な生物の骨が横たわっているだけだ。この深淵へ直接出向くことはできない。ナツメはまだ、どうすることもできない。それでも矢萩は道を見つけ出そうとする。覚悟をもって生かされた人間は、暗闇の中でも光を失わない。

固い決心をした者を巧みに諭そうとしても、無意味なのだろう。なぜなら、その覚悟は「誓い」と呼べきものだからだ。波打ち際で、砂を掬う。その一粒一粒に、記憶がある。この世の全てを知ることなど、園椰の言う通り到底出来ることではない。自身にとっての「世界の全て」を守ると決めたのならば、最後までやり通さなければならない。

海鈴は想いを言葉にせずにはいられなかった。大切な宝物を見せるかのように、一度心に刻んだ記憶を忘れまいと、書き残す。
殺すための手が、ただ手を取るためだけの手となったとき、雨は止み、空は晴れた。彼女にとっての、たったひとつ。たったひとりの家族と、矢萩の存在。叶わぬ未来の幻想だとしても、並木道を共に歩くことを願った。遠い海へ飛び立つ海猫の、羿昇する最後の輝き。宵の明星が、夜へ向かう者を見送る。全てが解け、灰は風に攫われ、行く。

ナツメは簡単に救いを語らない。言葉は容赦なく人を暴く意志だ。それにも関わらず、思わず口から出たように、矢萩に対して「それでも、」と言った。言葉が救いであると同時に呪いでもあることを理解しているはずの彼が、ほとんど衝動的に言葉を口にした。
矢萩が恐れた「独」の闇を、一点を見据えて、真っ直ぐに突き進んだ。どれほど遠くであろうとも、灯台の光は届いているのだ。
はっきりと、「君の悪夢を終わらせよう」「行っておいで」、さらには「帰ってこい」と言った。たとえ人の死を悔やむことがないとしても、そうできないとしても。せめて、少しでも誠実になれるように。広漠とした砂浜の中で、唯一見つけることのできた世界の欠片を、二度と失わないように。

「気に病むことくらいさせてください」。矢萩はナツメに対して同じ言葉を何度も繰り返す。頑固だと言われようと、ナツメに語りかけ続けることを止めないだろう。彼もまた、世界の一欠片を拾ったが故に。
悔いることができる。魔法使いに成った者を、ただ真正面から見つめる。善人であるが、善人という人物像に囚われない。ただ、正直でありたいと欲する。「欲深い」のかもしれないが、人間の前に絶望的に立ちはだかるあの壁を、壊す手がかりを持っている。
決して消えることのない火、海を初めに照らす、夜明けの光。本当に、彼はやってのけるだろうか?

誰もが寝静まった夜に、見上げるといい。波が去り、浜辺に打ち上げられた、あまりにも小さな世界の欠片は、己が心の内の「かがり火」が燃え続ける限り、その火に呼応して輝く、己がための導となる。


作業BGM:The Surrealist “Lux”


【8/18 追記】

万感の陽光、彼方の墓碑、
風は時の背中を押す。
この手を取るまで、
私は私であり続けよう。
輝ける朝、
待ちわびた船出に、
変わらぬ微笑を、
せめてもの手土産に。

/

消えゆく灯、最後の一服、
星降る夜の煙滅。
いずこへも流れ、彷徨う、
すべて夢であるがために。
来たるべき夜明け、
暗雲を燬き尽くし、
失われた世界を取り戻す、
ただ一つの言葉を。

2024年7月16日火曜日

『言解きの魔法使い』2巻 感想

いつかの記憶は前を向こうと後ろを振り返ろうと、どこであっても自分にしか見えない鎖となって、手や足や頸を緩やかに締め付けている。「紅茶のカップにインク瓶をぶち込む」選択をした人々は、誰に知られることもなく、昼間の雑踏に紛れる。彼らの行先は道なき道。それは決して成り行きの末の消極的な選択ではない。決定的な一歩を踏み出す決心をした者たちの、命の叫びだ。

どこかにいる、誰かだった自分は、今どうしてここに在るのか? 影が彼らをじっと見つめている。光に照らされる度に、これがお前の道なのだと語りかける。自分自身すら知ることのなかった真実のページが、開かれようとしている。

園椰は流れゆく水としての役割を与えられた。昔は、彼女なりに穏やかな生活をしていたのだろう。川のせせらぎを聴き、繰り返される日々のささやかな幸福を思ったこともあるのかもしれない。文字通り、誰でもない空っぽの存在になった彼女は、なすすべもなく溺れながら手を伸ばして、誰かが手を取るのを待っている。

溺れる、血の海に、日が沈む。もうじき訪れる永遠の夜から救い出した「あの人」、止まりかけた時計の針を再び進めた恩人、友との来るべき再会に向かう、最初の一秒。生者の世界からあぶり出されたことになってしまった人間の、密かな心の拠り所。矢萩はかつて自身に与えられたものを他者に与える。「帰ってこい」と言う。悪夢に苛まれながら、それでもただ在ることを認める。図書館に昼も夜もない。もはや夢は夜にのみ見るものではない。時は容赦なく過去に微睡んでいた影の目を覚ます。

言葉は何処ともなく記憶と心を攫う。雨の中を立ち尽くす。今まで傘を貸してくれた人間は、会話すらもままならなかったのではないか? しかし、ナツメは次第に大きくなる雨音に声を消される前に、たった一人に聞こえるように、「君には呼んでほしくない」と、ただのナツメであると、静かな叫びを上げていなかったか?
口を利くことを許されなかった子供、出口のない家の、物語でできた聖域。彼は偽者の自分に道を譲らなかった。文字が形作った姿とはいえ、偽者に刃を振るい、唯一の自分を証明した。そして、幻に阻まれた道の中、新たな一つの覚悟が彼を再び奮い立たせる、「矢萩が隣にいるなら、魔法であっても構わない」。

魔法使いに成った者は、自分が自分であることの、激烈な、怒りとも呼ぶべき生きる意志を持つ。倉科女史は腐りゆく愛し子を取り戻した。「耐えられなかった」と彼女は言う。心のどこかで、声高に、こんなものであってたまるものかと、やり遂げなければならないのだと、この先が暗闇の道だとしても、このまま生きる方が地獄なのだと。
では、ナツメは何を世界に突きつけようとしたのか? 思いも、願いも、漂う煙の雲となり、空をすっかり覆ってしまった。しかし、彼は見つめていたはずなのだ、どこまでも続く灰色の世界の遥か向こう、海のような青空、窓越しではない本当の夜明けを。


作業BGM:BIG|BRAVE "chanson pour mon ombre", "canon : in canon"

2024年6月29日土曜日

『奪界』1_三人の王

地獄の王の称号は、ただ一人にのみ与えられる。唯一の王冠は、その宿主を乗り換えるかのように、奪い、奪われ、当て処なき旅を行く。血に塗れた果てしない彷徨の向こう側に輝く王座はヴェールに覆われてたまま。なるべくして集う者たちは、僭称する者であれ、望まれた者であれ、理由と思惑と世界とを持つ。さぞ美しい光景だろう、かれ自身の内にしか存在し得ない、片時も忘れることのなかった理想郷に辿り着くことができたのならば。そして、地獄を我がものにせんと、この世界に三人の王たりうる者が名乗りを上げた。


最初の人類。人間の王。居場所を約束された者。アダムの自由とは、約束されたものが間違いなく自分のものであるということ。自分がはじまりであり、自分がいなければほとんど何も始まらなかったということ。自由である状態が彼の居場所である。戦うことは何かを得るためのものではなく、むしろ自らの力を示すために行われる儀式のような意味を持つ。約束された凱旋、君臨の合図。世界は自分のものでなければならない。世界の脅威は、何者であっても彼の領域に踏み入れてはならない。アダムの自由はアダムのためにのみ存在する。ゆえに彼は戦う、自らの良しとする自由のために、自己の愛のために。世界を失われると感じるや否や、玩具を取り上げられた子供のように不満を募らせる。地獄への度重なる侵攻の先に、伴侶の夢を見ているのだろうか?


対して地獄の王は、一人娘の道行を照らす灯りを点けるべく、赤黒く沈んだ世界を飛び回る、今まさに失ってはならないものを抱えた三人の王のうちのただ一人である。ルシファーは純粋ゆえに認められず、居場所を追われた。ひとつの星だけが圧倒的な輝きを放つことは、昔の仲間よりもむしろ、空が認めなかった。星は星々でなければならなかった。彼の自由は可能性、未知、光への意志。そして、一歩進むということ、あるいはそうなるはずだった過去の自分への、少しばかりの悔恨。「自分もかつてはそうだった」と言うときの、縋るような諦め。ルシファーはすでに堕とされた存在であるがゆえに、その地での生を守るものとなり、愛は専ら娘に注がれている。アダムが侵略するならば、ルシファーはその対称の性格を持つ。すなわち、戦いとは防戦の形をとる。守るべき存在を脅かすものは、誰であろうと彼の前に倒れる。迂闊に刃を向けた反逆者に対しては、王たる者の本領が発揮するだろう。それは圧倒的な力で劇場を支配し、観客を呆然とさせる圧巻の手品だ。しかし、実際にフィナーレを飾ったのは、舞台に飛び込んだ一人の少女だったが……。


目指すのならば、行かなければならない。自分を陥れたものへの怒りを胸に、自由を希求する。あまりにも遠く高い居場所を取り戻すこの願いが達成されない限り、アラスターはどこであろうと安住することはない。自ら立ちはだかり、自らを恐れる。恐ろしい看守でありながら怯える囚人。罰する者でありながら罰を受ける者。罪人であるがゆえに、死してなお鎖が頸を締め付ける。アラスターは課せられた鎖を断ち切るために戦う。そして、自分が鎖に繋がれていることも知らず、また知っていても身の回りの小事にかかずらううちにいつしか歩き方すらおぼつかなくなってしまった顔のない亡霊の群れに、憎しみの叫びを轟かせる。それは一人にのみ与えられる称号。アラスターもまた、自身の力を示すため戦いに身を投じているが、他の「王」たちとは異なり、きわめて個人的な動機による。かつて天界に住まう偉大な天使は、反逆の咎を負って地獄に追放された。しかし、彼は立ち上がり、数多くの仲間を勇気を奮い立たせるようになるまで鼓舞し、やがて天界への復讐のためにひとり飛び立った。純粋な闘志、怒りと戦いへの切実な意志。暗く低い場所から見える最も美しい彼だけの光は、見上げようともどこにもない。それは目を閉じた世界の裏側で燃え続ける消えない灯りだ。彼は荒れた大地をひとり歩く。幕引きは未だ遠い。

2024年6月23日日曜日

『言解きの魔法使い』1巻 感想

言葉に囚われ、言葉に救われる。言葉を失い、言葉を取り戻す。ときには明瞭に、また或るときには幻のように現れる怪物は、かつて人間だった青年が好んだ物語の数々。文字となった身体の一部は館を彷徨う記憶の亡霊。ナツメは言葉を「解く」。自分だったもの=言葉を殺し、燃やし、いつか全てが終わり再び人になるまで、戦い続ける。

元凶の魔女もまた館に囚われている。ほとんど子供的な純粋さをもって、まるで館が世界のすべてであるかのように振る舞うが、最後には倒されなければならない。名もなき彼女は、在りし日ののナツメが持たなかった心だろうか。子供らしくあること、許されること、ただ笑いたいままに笑い、泣き、怒ること。それは学生時代の回想の時点ですでに失われていた。

「君みたいなのをよく視るからね。」
「いっつも大勢の人間に囲まれて笑ってんのに、どこかずっと冷めた目をしてて、何考えてるかさっぱりですよ。」

生きている者と死んでいる者の区別はもはや無い。取り巻きすらも、話す死者と変わりは無い。その中で、いずれ死すべき有象無象のひとりだったはずの人間が、自分自身に向かって言い放った、「邪魔です」。
矢萩にとっては、単に邪魔だったから言っただけのことだったかもしれない。しかし、この瞬間にナツメの世界は動き出す。貿易会社の若社長として見られること、またそのように振る舞うこと、どこまでも「家」の人間であること、「家」という道理のもとで生きること。矢萩はたったの一言で、ひとりの人間の道理を変えた。

救われたはずの人間は、言葉と文字を操る魔法使いに成り果て、再び、文字=言葉=世界に囚われた。かつて自身の世界の道理をひとりの言葉で変えられた人間は、世界の道理を言葉によって捻じ曲げる存在となった。ナツメは館から出ることはできない。魔法使いでない限り、人が入ることもない。館は書物を納める領域であることの役割を越えて、彼の世界そのものとなった。この館に入ることは、彼の世界に足を踏み入れ、向き合うことを意味する。自分のために閉じられた世界は、他でもない自分によって終わらせるべきであり、だからこそ、たった一人の親友に別れを告げようとした。それでも矢萩は門の中に入った。友の行く末を見届ける覚悟はとうにあった。

これは過去の再演だ。一度世界から救われ、再び世界に囚われた者の、決別と解放の物語だ。言葉の牢獄から脱却し、もう一度、窓の向こうに輝く陽光のもとにゆく日まで、男は燃える炎の剣を振るうのだ。


作業BGM:Jakob “Blind Them With Silence”

2024年6月21日金曜日

欠片


 その日も男は手に一輪の花を携え、おれの手に花を押し付けると、道なき道、ぼうぼうに生い茂った草木を構わず掻き分けていくように人混みの中を脇目も振らず歩きはじめた。おれは彼に続く。遠くに聳える山々に目を凝らしてみるとまだ頂上に雪の降った名残がある。街の方は徐々に暖かくなり、息を白く凍らせることも火の前でかじかんだ手をすり合わせることも少なくなったおかげで、人々は着物に比例して重たくなった気分を解放せんとして太陽の下に我先にと集っていった。

 「誰もが生きている」と男は言った。

 「皆がそれぞれにとって美しいものを好み求める。ここには営みがある。ある者は生活の糧を得るために働き、ある者は学ぶ。夜になればストリートミュージシャンの奏でるアコーディオンに合わせてどこからともなく現れた数人の人間が踊ったことのないタップダンスを始める。やがて賑やかな雰囲気に誘われた周囲の人々は、これぞ人生の醍醐味とでも言わんばかりにその場限りの合唱を一日の締め括りとする。しかし、そのささやかな幸福に与っているのは人だけではない。君の頭に仔細まで書き込まれた地図を想像し、入り組んだ路地裏に足を踏み入れてみるといい。君にとっては言うまでもないが、そこはおよそ人ならざるものたちの領域だ。君も知っているだろう、幽霊と呼ばれる半ば畏怖の念をもって持て囃される類の存在が度々話題に上がるのは、彼らがふと散歩をしようと思い立ちぶらぶら歩いていたところを道に迷い、ひょんなことから別の世界に出てきてしまったところを我々が偶然目にしてしまうからだ。いや、あるいは、何かどうしても言いたいことがあるのに伝えることができず、途方に暮れていたところを俺たちが見つけることもあったか……。ともかく、彼らもまた影に住まう以上、疲れを癒す場所が必要だ。それがこの街にはある。君が守る城を中心として家々が取り囲むように建ち、太陽は全てを照らし、常に日向と日陰を作る。俺は君があの城の高いところから街を見下ろして微笑むのを知っている。君はこの街を愛しているものな。しかし、理由はそれだけだろうか? 君は街を見るが、どこも見ていないのではないか? 街の向こうにある、君にしか見えない何かを見ているのではないか?

 俺が君に会う度に手渡す花に何を思った? 君は今まで受け取った花を一つ残らず地下倉庫の一角にしまっておいていることを俺は知っている。俺たちが幼少の頃から待ち合わせ場所にしてきた、あの宝物庫のことだ。君は物心のついたときには既に入り浸っていたようだ。この街の歴史やあらゆる命の源を辿ったのだろう。人類が世界を住処とする以前の神話を、書物を通して見聞きしたのだろう。あの場所は歴史そのものだ。遠い祖先の賢人たちから現代の碩学、あるいは知を求める全ての人々があらん限りの熱意と行動をしてようやく掴んだ、水滴ほどの真実の積み重なりだ。君は全てを見るうちに、君自身にまつわる何かをあの宝物庫に眠る過去の品々に見守られながら密かに残したくなったのだろう? 一目で分かったとも、一輪ずつ丁寧に押し花にして、ガラスの写真立てに挟んで立てかけられていたから。その一角は神聖な場所だった。花の香りのしない楽園だった。暗く埃っぽい空間の中で、ただあの場所だけが常に手入れされていた。さも触れてはいけないものであるかのように急ごしらえの祭壇に祀られているのを見て、呪いの品かと思ったよ。いや、あるいは本当に呪いなのかもしれない……。君は花を枯らしたくなかった。しかしそのままにしておけば必ず枯れてしまう。だから押し花にして、せめて彼女らが最も美しく輝く一瞬のままに留めておきたかった。枯れた花はなお花であり続けようとする。水を与えても元の姿に戻らないし、密かに愛する者の手を恐る恐る取るときのように触れたが最後、たちまち粉々に崩れ落ちる。彼女たちは何故そこまでして姿を保たせようとすると思うか? あれは残り幾許かの命すべてを懸け、たった一つの言葉を伝えるためだけに君に目を向けてもらおうとしているのだ。「どうか私を忘れないで」! 花は見る者を喜ばせるためだけに咲くのではない。叫びだ。臨終に際して目を閉じる最期の瞬間に、絶望、希望、自らがもはや出会うことのない夢、彼方への憧憬を込めた刹那の断末魔だ! 君は計画的に配置された花壇と等間隔に並べられた樹木が始めからそうであったかのように、またこれからもそうであることに疑いもなかったゆえに故郷と勘違いしたままモルタル造りの迷宮を彷徨う蝶だ。君は迷宮をひたすら飛び続ける。自分を生かす花の蜜のかすかな香りを遠くから感じるが、疲労のあまりあちらこちらの壁に体を打ち付け、遂には人知れず地にはたりと倒れる。どこにいるのかも、どこに行くのかも分からないと、薄れゆく意識の中で頭をもたげ天を見上げるそのとき、君は探し求めた故郷の姿を見るのだ!

 俺の花で君の世界はますます美しく彩られていくことだろう。何たる安らぎ、何たる希望であることか! 君だけが聞いたこの声は、新しい季節の到来を告げる生ぬるい風、市場の賑わい、心地の良い朝の日差し、建物の影からかつての日々を懐かしんでこちらを窺う亡霊どもの視線、打ち捨てられたトルマリンのペンダントだ。だから、花を陽の当たらない場所に放っておくのはやめてくれ。俺は君が最後に目にする夜明けで、夕焼けで、どこからともなく吹く風だ。その風に運ばれてくる甘く爽やかな草花の香りだ。君が見ている俺の姿は、君がそうだと思った姿に過ぎない。それでも君が、大地や空や火や水に至るあらゆるものを通して俺の名を呼んでくれるのならば、見えるものが何だというのか! 俺たちはとうに星の命よりも遥かに永い時を共に在る運命なのだから、どうして百年の不在を嘆くことができよう? 俺の望みはただ一つ。果てのない草原を走る小川に回る水車の、心地よく絶え間ない響きを君と聞いているような、あの陽だまりの夢の中に君と眠ること、ただそれだけなのだから。時間だ、密かに慕う君よ、この俺がたった一人思い焦がれた君よ。君が俺の名を呼び続けてくれることを願おう」


 おれは道の真ん中で一人茫然と佇んでいた。往来は昨日も今日も変わらず街を流れ、明日も途絶えることはないだろう。右手に収められた花の深い青紫の萼は黒目だけを切り抜いた義眼を包み込み、陽光に照らされて透き通り、おれの心を燃やすのだった。

夜魔

 

 彼は大きく目を見開くと、止まっていた息を大きく吸って吐き出し、手足が自らの意志で動くことを確かめた。この一瞬の間に何が起こったのか理解しようとして思考を回転させるが、寝起きの頭には追い付かず、ただ茫然と虚空を見つめることしかできない。閉じられたカーテンからかすかに光が差し込み、ようやく彼は自分が世界に戻ってきたことに安堵を覚えた。これまでの一連の出来事に彼は身震いする。それはあまりに突然に起こった。体中のありとあらゆる器官がシャットダウンし、見えない巨大な何かが乱暴に彼をベッドに押し付ける。彼はもがこうとするが身動きを完全に封じ込められ、頭の中で何度も逃げろ、逃げろと自分自身に言い聞かせるが、次元を超えた存在の前では、彼の屈強な身体もただの操り人形に成り下がる。突如襲来した未知なるものは彼の肺に干渉し、じわじわと追い詰めていく。意識の淵に立たされた彼は、正気を保とうとして呼吸を試みるが、ひゅーー、ひゅーーーと、空気が弱々しく擦れる頼りない音だけが遠くの方で聞こえている。薄れゆく視界の中、ふいに何かが足首に触れる気配を感じた。彼はうつぶせで起き上がることすらままならないが、その感触に意識を集中させようとする。それは無数の「手」だった。「手」はどこからともなく這い上がり、自分を闇の中へ引きずりこもうとしているのだと彼は悟った。それは単なる幻だったかもしれない。足のしびれを「手」の感触と錯覚したのかもしれない。彼は一人暮らしだ。この部屋に誰もいるはずがない。誰も入れるはずがない……。しかし彼は、それらがまぎれもなく「手」であることを確信していた。なぜなら、彼を堕とそうと試みる「手」の方向から、地の底から響き渡るような人の「声」が理解し得ない言語で責め立てたからだ。「手」は容赦なく彼を闇の底へ導く。彼はもがく。呼吸がますます荒ぐ。視界が闇に呑まれていく。彼の存在は無数の影のひとつになり消えていく……。

 そうして唐突に彼は世界に帰ってきた。未だにはっきりと覚めない頭の中で、彼は自分を堕とそうとした「手」と「声」のことを考えた。それらは彼の理解の範疇をはるかに超えていた。生きている世界で普段見えることはないが、確かに人間の心の奥底に隠れている、暗く実体を持たないものだった。それらは存在している以上、きっかけさえあればいつでもその人が無意識下で想像した通りの姿を現す。彼は自らの深淵に「手」と「声」の形を与えた。それこそが望んだ心の影だったと彼は気づいた。「手」は彼が戦ってきた数々のトレーナーたちが、 パートナーを信じてボールを空に託し投げた、希望と緊張と勇気の象徴であるとともに、力及ばず勝利を掴めなかった相棒に自らの不甲斐なさを感じさせまいと労うためのものでもあった。「声」はトレーナーたちが自らとパートナーを勝利へと奮い立たせる合図であり、願いの叶わなかった者たちの音のない呻きでもあった。つまるところ彼は、これまで打ち倒してきた何百何千の相手が浮かべたであろう、下を俯き歯を食いしばる姿がいつか自分のものになることを予感した。一度の敗北——たった一度の敗北で、これまで築き上げてきたものが一瞬にして崩れ去ることの恐ろしさ!

 一人でいることに耐えられなくなった彼は寝間着のままで家を飛び出し、一目散に街を駆け抜けた。道中で何人かの早起きな通行人が彼に驚きの目を向けたが、彼の視界は目指す場所以外の何物も映さなかった。彼はある男の所へ向かっていた。その男こそが彼の助けになれるかもしれなかった。互いがまだ少年だったころ、男は彼の前に彗星の如く現れた。素性の知れない人物だったにもかかわらず、彼は長い間待ち焦がれていた何かがようやくやって来たのだという期待を抱いた。それから幾度となく二人は顔を合わせ、彼の期待通り、二人はいつしか互いにとってなくてはならない存在になった。光の体現とさえ言われたことのある彼にとって必要なのは、照らした光が作り出す陰を守ることのできる者だった。彼にはその男こそが救いだった。

 まるであらかじめ予期されていたことだったかのように、男は彼の急な来訪を受け入れた。男は自宅に押しかけた彼をひとまず労い、リビングに通し、コーヒーを一杯淹れた。彼はコーヒーを受け取り、飲むにはまだ熱いマグカップを両手で挟むと、一口、また一口と、ちびちび口を付けた。外を走ったことで冷え切った体が少しずつ温まることにより落ち着きを取り戻した彼は、事の顛末を男に打ち明けた。あくまでも何気なく、しかし、自分を飲み込む得体の知れない何かから救ってくれるようにと、一縷の望みをかけながら。男はただ静かに彼の発する一言一言に耳を傾けていた。それはあまりに突発的な告解ではあったが、その場はいずれ用意されるべきものだった。ひとしきり話を終えた彼は、悪夢を見てから張りつめ続けていた精神が一気に解れたことで、朝方から連絡なしに人の家に乗り込むという迷惑をかけてしまったことに気が付いた。彼は慰めて欲しいような、また一方で咎めて欲しいような感情に揺さぶられ、あれほど雄弁だった口の機能は停止し、代わりに体の芯から沸騰するような熱と湧き上がる汗に苦しめられた。この間にも男は柔らかな笑みを浮かべたまま彼の目を正面から見つめ、彼の身体はもはや自らの意思とは関係ないところまで行ってしまったようだった。やがて男はふっと笑い、視線を外して彼の肩を抱き、囁いた。「来てくれてありがとう。そんなに謝りたそうな顔をしなくてもいいよ。だっておまえはいつでもここに来ていいんだから。おまえが見たものは、きっと何よりも怖かったよな。大丈夫、何も恐れることなんかない。ただ一つ分かるのは、おまえは生きなきゃいけないってことなんだ」

sincère



 光の中を二人の男が歩いている。一人は前を、一人は後ろを。繋がれた手を頼りに、当てのない道を進む。果たして彼は本当に手を引いているのか、それとも繋ぐ手があると信じようとしているのか?初めに言っておくが、これは紛れもない夢だ。ただ一人の男のちっぽけな願いだ。俺がこうあって欲しいと思ったからこんな夢を見ているのだ。お前がどう思っているかは分からない。俺は自分の弱さ故に、片足の一つも差し出せないのだから。しかしだ、もしお前がお前の思うままに連れて行ってくれるのだとしたら、それはどこであろうと宇宙であり、遥か彼方の孤島でもある。祈ることくらいは許してくれないか? どこでもない場所で共に在れるのなら。その心の片隅に膝を抱えて蹲っている小さな子供は誰だ?もう俺には現在というものが分からない。不確かな羅針盤が嫌と言うほどに頭の中を回り続けている。確かに分からない、分からないが、精神の監獄に俺が閉じ込めた本当の思いに、お前以外の一体誰が気付けるとでも! これはお前のための願いだ。俺のための希望だ。見えるだろう、お前の血を、肉を糧にして、大地は花咲く! お前は生まれるべくして生まれたのだし、俺も在るべくして在るのだと信じたい。お前の薔薇は愛を根こそぎ養分とする。不安な予感と共に芽を出し、小さな針は体を蝕み、やがて耐えきれないほどの苦痛がお前の表へ蔓を伸ばし現れる。激痛に呻き、苦しみ、それでも未来を信じて疑わないお前に、俺は心から応えよう。お前の檻が壊れないのは、俺が鍵を持っているからだ。最後の一手を委ねるがいい。お前の最も美しいものを、俺は棘もろとも食らいつくしてみせよう! ああ、何て悲しく、優しいのだろう! お前の愛は俺の掌を血塗れにし、容赦無く口と喉と内臓を裂く。泣くな、そんな顔をするな。そうだ、それでいい
……これが本当の俺なのだ。俺はお前をひとりにしない。その痛みは俺のものであるべきだ。お願いだ、どうかここにいてくれないか。触れ合えども感じることはできず、食らえども腹は満たされず、また食われようと心は満たされず、飽き足らぬ欲は互いの背を追い続け、やがて一方がもう一方を捕らえると縺れたままどこまでも天体の中を転がり落ちていく……。しかし、どこかの星には辿り着けるだろうさ。行こう、どこかに行こう。お前が行くということは今や俺が行くことと同じなのだから。鳥よ唄ってくれ、俺たちの愚かで愛おしい結末を。俺たちの願いを聞いてくれ。蜂は日の元に、蝶は夜の影に集うだろう。悠久は確かに存在するし、最果てもまた俺たちを見守っているのだ。彼方から軽やかな春の土の香りがする……。俺はここで待っているからいつでも来るといい。ただし、最後に会うと誓ったあの日のことは忘れてくれるなよ。



 どこまでも高く飛びたかった。

 子供のころから、空を見上げることが好きだった。それは、なにか大きなものがひとりでに動いているようだった。一面の青が広がっている日もあれば、灰色の日もあった。天気によって空の色が変わるということは自然と理解していたが、幼かった俺は、自分と同じように、空を命あるものとして捉えていたのかもしれない。自分が気づかないほどゆっくりと時を刻む、世界を覆っているものとして。

 家の農場の仕事を手伝っているとき、休憩場所は決まって家の近くの小高い丘だった。そこは一番よく周りを見渡せたから、いつも小さな相棒を連れて行き、二人で時間を過ごした。俺にとって、あの場所は特別だった。そこにいるときは、自分を取り巻くあらゆるものが取り払われて、ただのちっぽけな存在になれた。子供だった俺は薄々と気が付いていた——だれもがそれぞれ、ひとりになれる場所を必要としていることに。なぜなら、そこは自由だから。知らず知らずのうちに嵌めてしまった足枷を、どこかでこっそり外さなければならないから。そこに座って背筋を伸ばし、目を閉じて深呼吸をすると、足から重みがなくなったように感じ、本当に飛んでいるような心地がした。俺は丘の一番高いところに腰を下ろして相棒を膝に乗せ、あちらこちらを指さし、よくこう話しかけていた。

 「いつかおまえは、自分の力だけでどこへだっていけるんだぜ」

 「あの山の向こうへ、海を越えた先の知らないまちへ、ひとっとびなんだ」

 「そしたらおれもつれていってくれよ」

 おだやかな風が草原を優しく撫でている。空からどこからともなく綿毛のような天使の群れが運ばれてきて、ふよふよと舞いながら、向こう側に消えていく。小さな俺にとって疑問だったのは、翼は最も楽な移動手段であるにもかかわらず、自分が一向に飛べそうにないことだった。それは人として生まれた存在の宿命ではあるが——さまざまな道具を発明したり、彼らの力を借りたりするなどして「飛べる」ものの——それでも、自分が持ちえないものに対して憧れを抱くのは、大人であろうと子供であろうと変わらない。どこかに行けるのなら、一番速くて遠くに行ける方法がいい。俺も例に漏れず、空を飛ぶことに純粋な憧れを抱く子供のひとりだった。自室の机に積みあがる気象学の図鑑。窓を開ければおのずから聞こえる、知らないがよく知る鳥のさえずり。翼を欲しがる少女の絵本。家族にせがんで買ってもらった、使いどきのわからない羽ペン。床に散乱したスケッチブック。青と水色だけが減ったクレヨン。


 それは夢、と呼ぶのだろうか。現実とかけ離れておきながら、あまりに現実味を帯びているもの。それが実際に起こったとき、自分の脳みそは体験した出来事を素直に受け入れるが、もう一人の自分は「これはありえない」と言う。現実ではないと疑うようにできている。本当は、願ってもやまないというのに。

 辺りには誰もいなかった。俺は何十回、何百回も立ったことのある、見慣れたスタジアムの真ん中で、ただぼうっとして佇んでいた。しんとした空気に包まれて、俺はフィールドに湧き上がる熱狂に思いを巡らせた。前に進む。向こう側からもう一人がやってくる。二人は出会い、これから起こることに胸を躍らせ、ひたすら開始の合図を待つ。そのとき、俺はひとつの小さな秘密を心に隠している。

 試合の直前、相手を見据えるまでの一瞬の間、天蓋に開けた空を仰ぐ。悪さをした子供が親に叱られているとき、親の説教を聞くふりをしながら、頭の中で明日は誰と遊ぼうかと考えるように。教師の退屈な長話をよそに、窓の外に未知の世界を想像するように。身に着けた重たいマントがひとりでにはばたいて、このまま自分を、上へ上へと連れて行ってくれたらいいのにと、叶うはずのない願望を抱きながら、大地にぎゅうと爪先を擦り付けて、重力の存在を確かめる。やがて火蓋は切られる。湧き上がる観客の熱気と歓喜の声が、自らの内に眠る凶暴な何かを呼び起こし、静かに目を開く。

 目の前には、大きくなった相棒がいた。周りを見渡してみるが、自分を取り囲んでいるはずの観客は、どこかに消えてしまっていた。俺は駆け寄って彼を抱きしめた。彼は大きくなっても、嬉しいときに尻尾を左右にゆっくり振る仕草だけはずっと変わらない。俺たちはひとしきり再会を喜ぶと、彼は背を向けて屈んだ。どうしたんだ、と声をかけても、彼はじっとそのままの姿勢で待っている。もしかしたら「背中に乗れ」と言っているのかもしれないと思い、彼の頼もしい背に跨り一撫ですると、一吠えして翼を広げ、脚を強く蹴り、飛び立った。

 相棒は真上の方へ一直線に飛んでいき、風を切り、雲を突き抜けて駆け上がっていく。俺は彼に落とされないよう、首にしがみついているだけで精一杯だった。まともに前を向くことすらできず、顔を上げたら首が折れそうだったので、引っ込めるしかない。向かい風に煽られて帽子が下に落ちていくのを視界の端に捉えたが、なすすべもない。もっとゆっくり飛んでくれ、と必死に叫ぶ俺の声などお構いなしに、彼はひたすら進む。待って。止まって。お願い。

 相棒がスピードをゆるめて、地上の方を振り返った。遠心力の急襲に敗北しそうになりながら、掴まっている首に力を込めて追撃に備えるが、彼はその場に留まって翼を羽ばたかせている。ようやく攻撃が止んだことに安堵し、彼のあたたかい首元に顔をうずめて深呼吸をした。しばらく背中に身をゆだねて落ち着いていると、自分の状況について考える余裕ができた。

 いつから彼はいたのだろう。どうして彼は自分の元に現れて、こんなところまで来たのだろう。そしてひとつの疑問に辿り着く。どうして俺はここにいるのだろう。


 自分の心の中にいる小さな子供が、ずっと何かを求めて叫んでいる気がした。それこそが知りたかった。おそらく、それが最も大切なことのはずだった。しかし、精一杯思考を巡らせたところで、何の答えも見いだせないことは明らかだった。俺はここに来るまでの間で、すでに疲れ切っていた。もう何もしたくなかった。重たい頭を上げて、ふと前を向く。

 広がる景色が視界に飛び込み、目の前の見えない霧がみるみるうちに晴れていく。そこにはすべてがあったが、あまりに遠く離れていた。 俺は目を凝らして、できるだけ多くのものを捉えようとする。あれがスタジアム。下の方には、生まれ育った故郷。横の島は、昔、修行のために旅した場所。結局、どうやって家に帰ったんだっけ。仲間たちが住む街。自分が住んでいる街。地上は意外と緑であふれている。周りは広く海で覆われている。ここからだと指でつまめるくらいの大きさしかないが、海の外側には、地図やニュースでしか見たことのない、広大な大陸が広がっていた。その裏側には、きっと正真正銘の未知なる世界が存在しているに違いなかった。

  この空からは、知っているものも知らないものも、すべて見ることができる。眼前の美しい景色を前に、ただ圧倒されていた。でも俺は、ずっとひとつだけを見つめていた。そこは生まれ育った場所。たぶん、最後にもどる場所。なぜなら、そこには多くの「思い出」があった。さっき、真っ先に探した——故郷が、友が、 街が——数えきれないほどの、捨てられない大切な記憶が。

 ようやくここに来られた、と思った。安心で満たされると、体中から力が抜けてきた。相棒の背に凭れる。すこし眠たい。まぶたを閉じる。息を深く吸う。ゆっくりと吐く。かすかな心臓の音が聞こえる。音はだんだん小さくなっていく。やがて意識は去る。


◇◇◇


 再生停止ボタンをタップして、また歩き始める。ぶらぶらと散歩するときのように、周囲を見渡してみる。春の陽気に誘われて、誰もが浮かれているようだ。老若男女の声が入り混じった雑踏。傍を走り去っていく子供たち。どこからか漂ってくるスパイスの香り。この後はパエリアでも食べに行こうか、とふと思いつく。

 録画したいから今の話をもう一度してほしいと頼んだら、お前は本気か、とでも言いたげな顔をされた。訝しむのも当然だ。人の夢の話を録るだなんて。でも、どういうわけか、やらないといけないと思った。 この話は大切にとっておかなければならないと。サーバーの砂浜に大切にしまっておいて、いつでも取り出せるように。埋めておいた宝物を、遠い未来の誰かが見つけてくれるように 。だから、記録しない手なんてなかった。

 そうこうしているうちに、目的の場所に着いていた。慣れた手続きを済ませ、すっかり顔なじみになった受付に会釈をし、エレベーターに乗る。無機質な音が目的の階に止まったことを知らせ、ドアが開く。ゆっくりとした足取りで部屋に向かう。 周りに迷惑がかからない程度にこっそり鼻歌を歌っていると、何だか悪いことをしている気分になる。

 部屋の前に着いた。一応の礼儀としてノックをするが、いつものように反応はない。勝手に部屋に入る。カーテンと窓を開けた。雲一つない青空がまぶしい。やわらかな陽光が差し、 心地の良い空気が部屋を満たす。大きく深呼吸をすると、体中が軽やかになってくる。まるでこのまま飛んでいけるみたいに。

 ふう、と一息ついて、おもむろに後ろを振り向く。その男は、整えられたベッドの上で穏やかに寝息を立てている。真白いシーツが彼の背に同じ色の翼を描いている。

『奪界』序



目が覚めると、そこは一面の泥沼だった。存在は死に、腐敗した景色が見渡す限り広がっている。生物は肉を剝がされてくすんだ白骨を露わにし、また、地上で名を知らない人間はいなかったほどの立派な人物も、最早かつての所業の要約でしかない。あらゆるものが鈍重になり、未来は確定した行動の繰り返しであるが故に、未来を語るものはいない。

死んだ世界を歩き続ける。きつい酒は心臓を焼き、言葉の燃え滓が口からこぼれ落ちる。誰もが多かれ少なかれ自身の悲しみを吐露することが良しとされ、この暗い地の底を表す名にふさわしい。一様に嘆き、今を憂い先を悲しみ、その乾杯は仲間の合図にして停止の号令となる。独房から監視塔に向かって祈りを捧げる囚人は光を迎えることすら能わず、監視を恐れるほかに何もできることはない。

しかし、あまりに多くの人口を抱えすぎたこの巨大な地底世界にあって、一人くらいは地をふんじばり空を睨みつけていても何ら不思議ではない。これは崇高で孤独な喜劇であるが、彼は最初の観客たちを忘れはしない。ここでは誰もが嘆いているが、笑っている者もいると知ったとき、己自身によってのみ成し遂げられる、燃え続ける雲に覆われた国においてただ一人の笑う者になるという決心が彼に二度目の命を呼び戻す。最も暗い場所にて投げかけられた燦曦によって再び立ち上がることができる。一度地に堕とされたとしても、輝ける太陽の王国を打ち建てるべく、彼は墓場から蘇った。彼の声は恐ろしいほどに残忍で揺るぎなく語り掛ける。いつまでそこに這いつくばっているつもりなのか? わたしはとうの昔に決めたのだ、悲しむことを定められたこの地底で、勝利の笑いを突きつけると! なにゆえ生き、死んだのか。どうして苦しむことなしにわたしの太陽を求められよう? そうだ、自分が自分である限り、この苦しみは続くのだ。だからといって、わたしであることをどうやって手放せるだろうか!

彼は歩みを止めることはない。彼の薔薇は寂れた大地に咲くには相応しくない。誓いは高らかに。「地獄は俺のもの」だ。